砂時計 -Sandglass-
浅黒い肌をした男の額には、複数の聖痕。
それが何を指しているのか、コウはよく知っている。
無様にも地面に転がった彼女の上に跨るようにして膝立ちする男…いや、ノア、と呼ぶべきか。
彼個人を示す名前は知らないし、知る必要もない。
コウは黒い団服と、胸元にローズクロスを抱くエクソシスト。
彼は、聖痕を持つノア。
どちらも、それだけの情報があれば個人を識別する必要はない。
エクソシストとノアは敵同士―――その事実さえあれば、戦えるのだから。
「アンタとは、出来るなら別の所で会いたかったよ」
彼は、吐き捨てるようにそう言った。
奇遇ね、とは言えない。
けれど、彼も同じことを考えていたのだと、そんな喜びがほんのりと胸に宿る。
「なぁ」
きっと、殺そうと思えば、いつでも殺せる。
それなのに、彼はそれを行おうとしない。
呼びかけられた声に答える代わりに、視線を彼へと向けた。
白い手袋を纏う手が、頬を滑る。
先ほどまでのアクマとの戦いの間に頬を濡らしていた血が、じわりと滲んだ。
ピリッと頬が痛むのはそこに傷があるからなのだろう。
僅かに眉間に皺を寄せたコウに気づいた彼は、その手を引いた。
血の滲んだ手袋を見下ろし、やがてそれを脱ぎ捨てる。
盛装している格好からは想像もできないほどに、乱暴な仕草だった。
真っ白なそれが汚れたことに苛立ったのかと思ったけれど、どうやら違うらしい。
彼の手は、今度は手袋と言う仕切りなしに、コウの頬に触れた。
触れた箇所から、低めの体温が伝わる。
「何でエクソシストなんだ?」
「何で…か」
理由など、こっちが知りたい。
子供の頃に病で臥せっていた所に、十字架を胸に抱く人がやってきた事が全ての始まり。
その人は医者でも神父でもなく、エクソシストを名乗った。
莫大な治療費のかかる病にも関わらず、その人は全額を工面すると約束した。
その代わりに求められたのは、コウのこれからの人生全て。
自らを神に仕える者と告げ、コウを引き取りたいと言ったのだ。
―――娘さんは、神に愛されるべき子です。
両親はその言葉を信じ、命が救われるならばとそれを了承した。
その後のことは、口にするのも嫌になる。
「そんなの…私が、知りたい」
コウは静かに笑った。
その諦めた微笑みを見て、男の表情が歪む。
「神に愛されなくても良かった。ただ…人に、愛されたかった」
「…エクソシストなのに?」
「全てのエクソシストが、自ら望んで神を信じ、愛しているわけじゃない。だって…」
コウはゆっくりと手を伸ばし、彼の頬に触れた。
「神は、ぬくもりを与えてくれたりはしないもの」
欲しかったのは、神の愛ではない。
当たり前に得られるはずだった、両親からの愛情だった。
涙ながらに手放すことが、彼らの出来る全てだったことはわかっている。
愛しているが故に、コウが生きることを望んでくれたのだとわかっている。
けれど、納得は出来ない。
数年、数ヶ月しか生きられなかったとしても、両親の傍に居たかった。
「神なんて…嫌いよ」
その言葉は拒絶。
エクソシストでありながら、神を信愛するべき者でありながら、それを拒んだ。
ドクン、と心臓が嫌な音を立てる。
イノセンスが宿る右手の甲が、酷く熱い。
今すぐにコウの命を奪おうとはしていないけれど、あと一つ何かのきっかけがあれば、恐らく―――
迫り来る死を前に、コウは酷く冷静だった。
イノセンスの異変に気付いたのは目の前の彼も同じだったらしい。
不思議な…自分にとっては良くないものが、彼女の右手を中心に渦巻いている。
「あと一言…偽りのない本心を乗せた言葉を紡げば、私は神を裏切ることになる」
自分の命を奪うものが彼であろうと、イノセンスであろうと…どちらでも構わない。
しかし、望めるならば…彼に殺されたかったと思う。
そう思うのも事実だが、神の物である身体のままその手にかかることは、彼女自身が許せなかった。
神の使徒としての自分を否定して逝けば、この胸の中でひっそりと息づく想いを受け入れてもいいだろうか。
「イノセンスが私を殺したら…あなたが、イノセンスを壊して」
この次に、私のような想いをする人を出さない為に。
死に逝く者の願いとしては、あまりにも穏やかに告げられたそれ。
「―――頼まれなくても、そうするさ。それが俺の「仕事」だからな」
彼の答えに、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
視線が絡んだあの瞬間、奪われたと思った。
全てではない、けれど、確かに彼女に奪われたものがある。
そして自分もまた、同じものを彼女から奪った。
それは、形のない視線であり、感情であり、心。
こんな自分たちが運命を信じるのは、馬鹿らしい。
―――危険だ、離れるべきだ。
本能がそう訴えるけれど、彼はそこから動こうとはしなかった。
寧ろ、別のことを考えている。
神を否定し、ありのままの自分として死に向かう彼女を救うには、どうすればいいのか。
死なせたくない、殺したいとも思わない。
「別の所で出会ったら…未来が変わってたか?」
「…別の所で会うことなんて、出来なかったでしょうね。でも…変わっていたら、幸せね」
「…だな」
そう言って笑った彼は、素手でコウの手を掴んだ。
力を放出しているイノセンスが、ノアを拒むように彼の皮膚を焼く。
ジュッと嫌な音がして、コウが手を引こうとした。
「やめてっ」
「アンタ、名前は?」
「やめてったら!あなたの手が…!」
「名前、聞きたい」
「…コウよ!コウ・スフィリア!!」
いくら手を離そうとしても、彼の手は完全にコウのそれを包み込んでしまっている。
やめて、と繰り返す彼女の目には、薄っすらと涙が浮かんだ。
自分の死を前にしても涙を見せたりしないのに、こんな時だけそれを見せるのか。
そんな彼女がどうしようもなく愛しく思えた。
「…俺はティキ・ミック。なぁ、コウ。俺とイノセンス、どっちを信じる?」
「…っ」
彼女は答えられない。
この場で思うままに答えを出してしまえば、きっと彼を巻き込んでしまう。
唇を振るわせて首を揺らす彼女に、ティキはそっと微笑んだ。
「信じてくれるなら、答えてくれ」
望んでいなくとも、安心させられる微笑みに見下ろされ、コウは瞼を伏せた。
許されるのだろうか。
ただ一度だけでも、心のままに生きることを、許してくれるのだろうか。
いや…きっと、イノセンスはそれを許しはしない。
けれど、彼がそう言うのならば。
「――――…私、は………あなたを―――」
頬を伝い、溢れたのは涙だったのか、想いだったか。
08.12.09