羅針盤 -Compass-
「もう一度、言っていただけますか?」
きょとんと目を瞬かせ、次にニコリと笑顔を浮かべたコウが、背筋が寒くなるような穏やかな声でそう言った。
そんな彼女から視線を逸らしつつ、クロスは煙草を吸う。
「―――俺が死んだらどうする、と聞いたんだが」
聞こえなかったか?と逆に問いかける。
やはり、聞き間違いではなかったようだ。
コウは彼の横顔を見つめ、そしてため息を吐き出す。
「何を仰るかと思えば、くだらない…」
「お前…仮にも師匠に向かってくだらないとは何だ」
「何度でも言って差し上げますよ。それから、その質問の答えですが―――」
窓際に凭れていたコウが、その背を壁から放し、彼へと近付いていく。
上等なソファーに座る彼の前に移動し、軽く開かれた膝の間に自分の膝を着く。
向かい合うようにして彼の正面に立った彼女は、その白い手を彼の首に添えた。
少し低めの体温を持つ手の平が、彼の喉仏に触れる。
「殺します。どこまででも追いかけて…私の手で、必ず」
クロスはコウの目を見つめる。
微笑みを浮かべながら、何を言うのかと思えば。
どうやら怒らせてしまったことに間違いはないらしい。
片手で煙草を灰皿へと押し付けながら、彼女のいない方へと煙を吐き出す。
「―――物騒だな」
「そうですね。でも、約束を破るつもりなら…それも仕方がないと言うものでしょう」
そう言って肩を竦め、彼の首から手を離す。
代わりに、バランスを保ちやすいようにとその肩に手を乗せた。
姿勢を保つには彼から離れ、きちんと両方の足の裏で立てばいいのだが…腰に回った手が、それを許さない。
早々に離れることを諦めた彼女は、自分のいいようにと姿勢を変えた。
そんな彼女を見上げ、クロスが口を開く。
「お前に俺が殺せるか?」
「―――愚問ですね」
やや吐き捨てるようにそう言ったコウは、ゆっくりと言葉を繋ぐ。
「生きる理由になってやると言ったのはあなたです。だから、私はあなたについて来た。
私を置いていくと言うのならば…せめて、私の手で終わらせて差し上げます」
「離れるなら殺す、か。…強烈な告白だな」
「ええ、そうですね。でも、俺が死ぬ時には連れて行ってやると言ったのは師匠でしょう?
私を人殺しにさせたくなければ、死なないでくださいね」
物騒な会話だとはわかっている。
けれど、ある意味ではこの程度の会話は日常的に行われているものだ。
クロスは、偶にこんな答えにくい質問を投げかけては、コウに答えを求める。
まるで、彼女を試しているかのように。
「中央から奴が来る」
「奴?心当たりがありすぎて、どなたかわかりませんね」
クロスが教団から逃げていたのは記憶に新しい。
その関係もあり、彼が奴と呼び、ここに来る事を嫌がる人物は少なくはない。
それだけではどの人物が来るのかがわからず、コウは首を傾げて見せた。
「ルベリエ」
「………そう」
その名を聞くなり、コウの目から温度が消えた。
そしてふと視線を逸らし、扉の方を見る。
「あの男が来るなら…リナリーが心配ですね」
リナリーにとって、彼は過去のトラウマだ。
笑顔を失っていた頃の、あの辛い過去のトラウマ。
コウは自らのことのように表情を歪めた。
「人の事を心配する前に、自分の心配をしたらどうだ?」
「私の事など…リナリーに比べれば、軽いものですよ」
「軽い…か」
そう呟き、クロスの指先がコウの団服の襟元のボタンを外す。
勢いよく寛げられた首元に、大きな傷が見えた。
肩から鎖骨を通り、反対の胸の方へと向かう、大きな傷跡。
薄くはなっているけれど、その存在が消えることはない。
「これのどこが軽い?」
「我侭を通している自覚はありますからね。この程度の傷ですんでいるのですから、まだ良い方でしょう」
そう言って薄く微笑む彼女に、クロスは溜め息を吐き出した。
リナリーほど酷くはないとは言え、自分にこれだけの傷を残した相手を受け入れることは難しい。
もちろん、彼女の方に歩み寄る意思など欠片も見受けられないのだが。
何とも言いがたいクロスの視線を感じたコウは、苦笑に似た笑みを浮かべる。
―――命令に従わぬ道具など必要ない!驕るな、小娘風情が!!
脳裏に、あの男の声と、あの時の感覚が甦った。
完治しているはずの傷跡がズクンと痛む。
あの日、ルベリエは確かにコウを殺そうとした。
剣を振り上げられ、避けられたはずなのに避けなかった彼女。
迫り来る刃を前にしても自分の信念を曲げず、ここで死ぬのも運命と受け入れた彼女を救ったのはイノセンスだ。
イノセンスは、斬り付けられた傷跡を覆い尽くしても飽き足らず、彼女の全身をルベリエの視界から隠した。
ルベリエが剣を下ろし、クロスが駆けつけるのと同時に、イノセンスは1匹の蝶へと戻った。
すでに意識を失っていたコウは、その後に続いた会話を知らない。
「コウ!!」
「…クロス・マリアン元帥。この娘を監視しておきなさい」
「…何だと…?」
「この娘は、死を受け入れていた。イノセンスを発動させなかったにも関わらず、イノセンスは彼女を守った」
この意味がわかりますね、と問われ、クロスは口を噤む。
この時点では、イノセンスが適合者を守るという前例はなかった。
故に極秘項目として隠された、事実。
知っているのはその場にいたルベリエとクロスだけだ。
ゆらりゆらりとコウの周囲を漂うように舞う蝶。
金属を思わせる銀色のそれが、クロスの視界を横切った。
アレン、そしてリナリーがイノセンスにより命を救われた。
二人の異例。
コウもまた、その異例の一人なのだと知るのは自分とあの男だけだ。
出来ることならば、彼女に近づけさせたくはないと思う。
この緊急事態を前に、ルベリエはコウを野放しにはしないだろう。
「…クロス」
コウが彼を呼ぶ。
その名で呼べと言われたけれど、彼女は滅多なことがない限り、クロスを「師匠」と呼ぶのをやめない。
視線が絡むと、彼女は静かに微笑んだ。
「独りで死なないでください。
生きることが出来ないならば、この命をあなたの手で終わらせていってください」
漸く見つけた、自分を傷つけない居場所。
それを失えば、この心は死んだも同然だ。
それならば…心が死ぬのならば、彼の手で命すらも終わらせて欲しいと思う。
絶望を知っているコウだからこそ、そう願う。
その切ないほどの願いを目の奥に読み取り、クロスは無言で唇を結んだ。
そして、何も言わずに彼女の髪に手を差し込み、引き寄せる。
08.12.04