羅針盤 -Compass-
「今も元帥になれって煩いのか?」
不意に、クロスがそう声をかけた。
しっかりと腰を捕獲され、暇をもてあまして仕方なく彼の肩に凭れていたコウ。
彼女は、彼の質問に小さく笑った。
「煩くないと思います?」
「…思わねぇな。これだから堅物は嫌いなんだ」
そう言ってグラスの中の酒を飲み干す。
空になったそれをテーブルの上に置く。
大人しく酌をしてくれるような性格ではないとわかっているので、自分で酒を追加した。
「まだ無駄な時間を使ってるわけか」
「そうなりますね。他にもっとすべきことがあると思いますけれど」
呆れ以外の表情を浮かべることなく、淡々とそう語る。
事の発端はいつのことだっただろうか。
ふわり、と視界の中を舞う蝶を指先にとまらせながら、コウは昔を思い出した。
クロスと言う人を知る者ならば、こんな自分の行動には呆気に取られるだろう。
現に、アレンは理解できないと頭を自分の白髪を掻き毟っていた。
「何であなたなんでしょうね」
コウ自身、何故こんな人を好きになってしまったのだろうかと思う。
呟いた彼女に、クロスはハッと鼻で笑った。
「お前を拾ったのは俺だからに決まってんだろうが」
迷う素振りもなくそう答え、煙草を吸う。
彼の言葉に、コウは、なるほど、と頷いた。
拾われた―――言ってしまえば、自分の世界には、彼だけだった。
地獄絵図のようなあそこから救ってくれた者だけを見てしまうのは、仕方がないことなのだろう。
生まれ落ちたときからずっと、コウの傍にはこの蝶のイノセンスがいた。
その所為なのか、アクマに狙われる毎日。
見たこともない奇妙な機械を目の当たりにし、両親はコウを恐れた。
そうして、捨てられた赤ん坊は、運よく別の者に拾われ、そしてまた捨てられる。
物心の付いた時には、自分がそう言う人生を送ってきたことを理解した。
―――化け物を呼ぶ化け物
そう罵られた事もある。
当然、暴力を受けることも日常的だった。
自分はずっとこうやって生きていくのだろう。
何となく、そう思って人生を諦めていたコウ。
そんな彼女に光を与えたのが、クロスだった。
「お前は生きていたことが奇跡だからな」
「悪運だけは強いんです」
「あぁ、運が強いことだけは認めてやるよ。俺を捕まえて放さねぇんだからな」
いくらか縮んだ煙草を灰皿へと押し付ける。
繊細な柄の刻まれた美しいそれが、黒い灰により汚される。
「奇跡…そんな事はないですよ。私が生きているのは、この子達のお蔭ですから」
命の危険を感じた時には、この蝶が助けてくれていた。
彼女を傷つけようとする者に、平等に訪れる死。
周囲に与えた恐怖は、その度に酷くなった。
「でも…流石に、あの時は死ぬかと思いました」
「あの時…?あぁ、俺が助けてやった時か」
「ええ。一番酷い怪我でしたから」
そう呟き、背中を意識する。
痛みはないけれど、そこに痕が残っているのだと感じさせる独特の引きつり。
記憶の中で、最後の世話人のところを逃げ出してから、アクマに襲われた。
いつの間にか、手綱の扱いを覚えていたコウは、すぐにイノセンスを発動させる。
百、千と増えた蝶が一斉にアクマへと襲い掛かる。
全てのアクマを破壊しつくして、イノセンスが戻ってくる―――それが、日常。
でも、その日だけは様子が違っていた。
イノセンスとアクマの攻防を見上げていたコウは、後ろから近づいていた気配に気付かなかった。
突然背中を襲う、焼け付くような痛み。
振り向いたそこにいたのは、いつものようなボール型のアクマではなかった。
けれど、何となく…コウの中の第六感的な部分が、それがアクマであると教えてくれる。
この時、コウはまだレベルの存在を知らなかった。
「死ぬんだろうなと思って意識を失って…目が覚めた時には、あなたがいた」
「…あれから10年か…早いもんだな」
新たな煙草をふかせながら、出会った頃のコウを思い出す。
まだ少女と言っても過言ではなかった彼女は、この10年の間に美しく成長した。
暴力を受けていたにもかかわらず、それが肌に残っていないのは、不幸中の幸いと言えるのだろうか。
彼女の身体に残っている傷痕は、あの時アクマによって傷つけられたそれ一つ。
「箱舟の事もありますし、今後は大元帥達が更に煩くなってくるでしょうね」
迷惑なことですけれど…と溜め息を吐き出す。
色々なことが動き出している今、そろそろ限界なのかもしれないとは思う。
けれど…自分の気持ちに嘘はつけない。
「元帥になることのどこに意味があるんでしょうか」
「力が認められたってことだ。素直に喜ぶべき要素もあるな」
「でも、私はあなたの弟子を辞めるつもりはありません」
きっぱりとそう告げる彼女に、彼は苦笑を浮かべた。
こういう本気の心は、あまり得意ではなかったはずだ。
上手くかわし、浮き草のように生きてきた彼にとって、本気はそれを縛る鎖。
しかし…コウのこの眼差しに、心が満足する。
「お前が元帥になろうと、俺の弟子であることに変わりはねぇぞ?」
「では、クロスは私が他の男の師匠になっても、文句を言いませんか?」
「もちろん―――却下だな」
そうして紫煙を吐き出す彼に、コウはクスリと微笑む。
―――もっと違う人を好きになるべきです。コウほどの器量なら、どんな男だって大丈夫ですなんから。
アレンにそう言われたのは、一度や二度のことではない。
各地に愛人と借金を作ってくるこの人を待ち続けるコウを心配しての言葉だ。
確かに、愛人の存在は心から喜べるものではない。
けれど、その程度の話題で一喜一憂するような純真さは、ずっと昔に捨ててしまった。
それに―――
「あなたが帰ってくる場所になると言う約束―――違えさせるつもりですか?」
「…物好きだな、お前も」
否定も肯定もしないクロスに、コウは目を細めた。
「ええ、私もそう思います」
08.06.20