羅針盤 -Compass-

クラウド元帥のイノセンスとは少し違うけれど、生きたイノセンス。
確かな意思を持ち、コウの傍を浮遊する。
ふわり、ふわりとそれが舞う光景とは、もう何年もの付き合いだ。
流石に視界に入ったからといってドキリとすることもなくなった。
スッと指先を差し出せば、流れる水のような軌道を描き、指先で羽を休める蝶。
全てが銀で構成された蝶は、本当ならば気味が悪いと思う所だろう。
しかし、まるでこの世のものとは思えぬ、言葉にできない美しさがあった。
何故か、見る者の心を掴んで離さない魅惑の蝶。
コウはゆっくりと手を動かし、指先に止まる蝶にキスを送る。
一瞬だけひんやりとした感触が伝わり、喜びに震えるようにして蝶が鱗粉を撒く。
ふわり、と指から空へと舞い上がった蝶は、いつの間にか二匹に増えていた。
それを連れ立ち、コウはとある部屋を目指して歩き出す。









コンコンとノックをした後、返事を待たずにドアを開く。
部屋の中央に置かれた、一目見て高価だとわかる長椅子で寛ぐ男。
天井を見上げて煙草をふかしていた彼は、侵入者であるコウを見た。

「おかえりなさい、クロス元帥。随分と長旅でしたね」

にこりと、非の打ち所のない笑みを浮かべ、コウがそう告げる。
指で支えた煙草から煙を吸い、吐き出してから、彼はそれを灰皿に押し付けた。

「…今帰った」
「嘘おっしゃい。昨日帰ってきていることくらい知ってます」

つん、とした態度でそう答えれば、彼女の心境を表すかのように蝶が盛んに羽を動かす。
鱗粉を撒き散らすその様子を横目に、クロスは肺に残った煙を吐き出した。

「帰ってきたのに何の文句がある?」
「いいえ、何もありませんよ?
どなたかの報告書の山が漸く片付いた頃に帰っていらっしゃるので、素晴らしいタイミングだと思いまして」
「そうか。―――ご苦労」

たっぷりと嫌味を込めた言葉に、彼は飄々と頷いた。

「私はあなたの召使でも従者でもないつもりなんですけれどね、師匠?」

師匠、と言う部分をひときわ強調させ、コウがそう告げる。
本部に寄り付かないこの師匠の所為で、自分がどれほど苦労させられているか。
教団本部とのやり取りの間に立たされ、事後処理を任され…ついでに言うと、部屋の掃除までさせられた。
文句のひとつも言いたくなるというものだ。





「アレンに会ったか?」
「ええ。可愛い弟弟子が怪我をして帰ってきたんですから、見舞いに行くのは当然です」
「…俺のところに先に顔を出さずにか」
「文句が言える立場だとお思いですか。先に来てほしければ怪我のひとつでもしてみたらどうです?」

やや不満気味の声をこぼすクロスに、即座に返事を繰り出すコウ。
自分を生贄のごとく本部に派遣し、その後迎え所か連絡すら寄越さない師匠。
まるで本当の姉のように慕い、師匠の借金返済に尽力してくれた可愛い可愛い弟弟子。
両者を天秤にかけ、傾く方向など、決まっているではないか。
況してや、可愛い弟弟子は仲間と共に満身創痍。
どちらを優先するかなど、考える必要すらないことだ。

「…お前、アレンが来てから棘があるな」
「いつまでも甘えてばかりはいられませんから」
「迎えに来なかったことを拗ねてんのか?」

ニッと口角を持ち上げ、不敵にそう問いかける彼に、コウは溜め息を吐き出す。
そして、背中でドアを閉め、立ち上がろうともしない彼の元へと歩み寄った。

「師匠…」

呆れた風に、溜め息と共にそう呟く。

「呼び方は教えたはずだ」

彼の手の届くところまで近づくと、その腕がコウの頬へと伸びる。
頬から耳、そして顎を辿り―――グイッと首の後ろを引き寄せられる。
彼の足の間に膝をつく形で、彼に向きあった。
胸よりも少しばかり低い高さに彼の頭がくる位置関係だ。
膝だけで体重を支える不安定さにより、コウの手は自然と彼の肩へと添えられた。

「そう言えば…リナリーから聞きましたよ。中国で良い方を見つけられたそうですね」
「……あぁ」

彼にしては珍しく、少し低い声。
その声と、僅かな表情の変化から、コウは気づいた。

「―――嫌な時代ですね。また…失ってしまったのですか?」

エクソシストとして日々を過ごしていると、嫌でも敵の存在の大きさを認識する。
大切だと、守りたいと思ったものすらも、手の平から滑り落ちてしまう。
コウもまた、そうして大切な者を失った人間の一人だ。
彼は彼女の質問には答えず、ただ前にある彼女の腰を引き寄せた。
腹部に額を預けるようにして彼女の細腰を抱きしめる。
コウは、彼の赤い髪をそっと撫でた。
彼は涙を流していない。
ただ、死を悼んでいる。
いつだって不敵に笑っていて、まるで自分には恐れるものなどないような態度の彼。
自分の前のみで見せるこう言った姿が愛しいと思う。
これだから、彼の傍から離れられない。

どれくらいの時間、そうしていたのだろうか。
アレンがこんな姿を見る日は来ないだろうな、と、そんな事を考えていたコウ。
ふと、腰に回された腕が緩むのを感じ、コウはクロスの頭を撫でていた手を離した。
指先から赤い髪が逃げていく。

「…コウ」
「どうしました?」
「…少し痩せたか?」

骨が当たる、と言われ、コウは深く長い溜め息を吐き出す。
いつまでもシリアスな空気を保ってくれないのがこの人なのだが、いやしかし…。

「一週間ほど前に、アクマが大量発生している地区に派遣されたんです」

怒涛のハードスケジュールでした。
コウは肩を竦めてそう言った。
元帥狩りの件もあり、百を超えるアクマに対し、エクソシストはコウただ一人。
状況を説明した彼女に、彼は軽く眉を顰めた。

「怪我は?」
「ありませんよ。私を誰の弟子だと思っているんです?」

彼は彼女の答えに口角を持ち上げると、自分の横に置いていた灰皿を押しのける。
そして、彼女の腰を押してそこに座らせ、手の届くところにおいていた酒瓶に手を伸ばした。

「しっかり食って体型を戻せよ。抱き心地が悪い」
「…痩せたと言っても3キロ程度なのに、よくわかりますね」

渡されたグラスを脇へと置き、彼の持つ酒瓶を受け取る。
そして、彼の手にあるグラスに黄金色のそれを注げば、褒めるように頭を撫でられた。
彼がその中身を呷る隣で、酒瓶のラベルを見下ろすコウ。

「また高い酒を…」

自分が離れている間に倍増しているであろう借金の額を思い、コウは溜め息と共に眉間を押さえた。

08.05.10