東国の使徒  05:天秤を司る者

もう何度目の任務だったのか、忘れてしまった。
随分と馴染んだ団服の裾を遊ばせながら、コウは前に座るラビを見る。
どこか遠い目で過ぎてゆく風景を眺める彼に、ふと父親の言葉を思い出した。

―――コウ、ブックマンと言うのはね…

「ラビ」

小さくその名前を呼んでみる。
一概に小さく、と言っても、それは聞こえないほどのものではなかった。
汽車の音に掻き消されるほどでもなく、彼の耳には届いている筈だ。
しかし、彼の反応はない。
意識を完全にシャットアウトしてしまっているような彼の様子に、コウは溜め息を吐く。

「ラビ」

今度は少し強めにその名を呼んだ。
まだ彼の意識が帰ってこない。

「ヴォルティック…どうしましょうか」

すでに景色が流れていない事にも、彼は気付いていないだろう。
降りる準備を済ませたコウは、ラビの意識を戻すべくその名を呼んでいた訳なのだが。
ぽと、と肩に止まったゴーレムを見ながら、コウが溜め息を零す。

「…この際、置いていくと言うのも一つの手かもしれませんね」

幸いこの駅は他の駅との時間合わせの兼ね合いで、停車時間が長い。
とは言え、その時間は10分ほどだ。
汽車が止まってから、こうして無意味な時間を過ごしてすでに3分。
残り時間を考えると、放っておいたラビの意識が戻ってくるとは到底思えないけれど。
仕方ない…そう思い、コウは一旦荷物を置いた。
そして、窓と彼との間に入り込み、無理やりにその視界に映る。

「ラビ!」

ぱちんっとその両頬を両手で挟みこんだ。
彼の視線が一度どこかを彷徨い、コウに焦点が合う。
漸く帰ってきてくれたようだ。

「…え?ん?…コウ?」
「そう。私です。もう何度も呼んだんですよ、まったく…」

そう言って彼女は窓の外が見えるように身体を動かした。
四角い枠の中に見える風景は、すでに静止画のように止まっている。
そんな中、線路二つ分向こうに止まっていた汽車の煙だけが、唯一動きを見せていた。

「あ…悪い。ちょっと考え事」
「…そうみたいですね。っと。こんな話をしてる場合じゃないですよ。早く降りないと」

このまま次の駅まで、など冗談じゃない。
コウはラビの腕を引いて出口へと急ぐ。
幸い大きな荷物などなく、外して隣に置いていたポーチだけを何とか掴み、後は引っ張られるままのラビ。
前を行く彼女の髪に結わえた鈴がリン、と綺麗な音を立てた。














「ねぇ、ラビ」
「ん?」
「“ラビ”は何人目なんですか?」
「…何の事さ?」

全く誤魔化している風に見せない辺りは流石だ。
浮かべられた完璧な笑顔に、コウはそう思う。
しかし、ここで引くようならばこんな質問を投げたりはしない。

「長いログの中で、どれだけの名前を持ったんですか?」

直接的な質問だった。
ブックマンの本質を知らない者からすると、思わず疑問符を浮かべたくなるような質問。
思わず呆気に取られた彼を横目に、コウは段差をひょいと飛び越えた。

「私の家系は、戦から戦に…まるで流れるように生きています。リブラ―――聞いたことくらいはありますよね?
その長い歴史の中で、ブックマンと接する機会も多かったようですよ」

ログ、と言う形で戦を渡り歩くブックマンとは似て非なる存在。
コウの家系は、記録を残す為ではなく、世界を平和へと運ぶように動く。
彼らは、自分達を「リブラ」と呼んだ。
語源は、天秤座から来ているといわれているが、事実はコウの知るところではない。

「ブックマンの事は父から聞きました。その…色々と」

声が小さくなってしまったのは、本人の知らない所でそれを聞いてしまったことに対する後ろめたさだ。
別に彼女がそれを感じる必要などどこにもないのに…そう思ってしまう辺り、そろそろ混乱も直ってきたようである。
ラビは長い溜め息を吐き出し、軽く両手を上げた。

「…リブラってじじいから聞いた事はあるけど…実際見たのは初めてさ」
「元々、ブックマンみたいに公開するような身分でも何でもありませんからね」

戦を第三者の位置から見定め、世界にとって正しいと思う方に加担する。
あくまでログのためにその戦に入るブックマンとは違う存在だ。

「そう言えば…ブックマンとは何度かその手の話をしていますけれど…ラビとは、初めてでしたね」

思い出したように納得するコウ。
彼女にとって、話したか話していないかは最たる問題ではないのだろう。
コツコツとブーツを鳴らして歩く彼女は、会話を続けながらも周囲に意識を向けることを忘れていない。
そう言えば、今はアクマ破壊の任務中だった。
今更だが、それを思い出すラビ。

「それにしても、何で急にそんな事を聞いたんさ?」
「それは…。………ただの、気紛れですよ」

明らかに何か別の理由がありそうだ。
しかし、こう答えた時の彼女は、これ以上は話そうとはしない。
それを聞き出す時間が無駄だと言う事を理解しているラビは、ふぅん、と納得したような顔をした。

「じゃあさ、コウのことも教えてよ」
「リブラのこと?」
「そ。今までどれくらいの戦を見てきたんだとか、そんな感じ」

そう言ったラビに、直感的に「話すつもりはないのだ」と悟る。
ブックマンと言うのは本来人とは深く関わらないものだから、仕方がないのかもしれない。
コウはそれを理解し、にこりと笑った。

「じゃあ、また今度日を改めて…ですね。今は―――」

お客さんですから。
いつの間にか彼女の手に握られた風迅が風を切って前方へとカマイタチを飛ばしていく。
スパン、と真っ二つに割れたそれの向こうにいくつもの影を認め、ラビも臨戦態勢に入った。










パートナーを組んでいるだけあり、ラビとの戦いは実に楽だ。
桜花を片手に桜吹雪を降らせるコウの攻撃の合間を縫い、ラビが動く。
彼が距離を取った所で、それを追ってきたアクマに無数の花びらが襲い掛かった。
タイミングがぴったりと言うか、何と言うか―――彼との戦いは、動き易い。
前で動くその明るい色の髪の彼を眺めながら、コウはふと過去の会話を思い出した。





「ブックマンはいくつもの名を持って生きている」
「本当の名前じゃないんですか?」
「あぁ、そうだよ。彼らは、その時のログにあわせ、いくつもの名前を持っているんだ」
「じゃあ、ブックマンが名乗ったとしても、それは本当の名前ではないんですね」
幼い頃から癖となっている敬語が、少し拙い。
コウがまだ、少女と呼べる年齢であった頃の会話。
「それも少し違うよ。彼らにとっては、それら全てが自分なんだ」
「…難しいです」
「そうだね。でも、いつかきっとわかる時が来る。だから、これだけは言っておくよ」






この続きに、父は何と言っていただろうか。
その先の光景も浮かんでいるのに、会話だけがまるでノイズが重なったように聞こえない。

「コウ!!」

鋭く自分を呼ぶ声が聞こえ、コウはハッと我に返る。
すでに目の前に迫っていたアクマの砲弾に気付くと、すぐに風迅を構えた。
間に合うか―――自分の失態に舌を打ちたくなった所で、ドンッと何かにぶつかられる衝撃を受ける。
先ほどまで自分が居た所が派手に崩れた。

「戦闘中に余計な事考えんな!」
「…っごめんなさい」

助けてくれたらしい彼は、やや声を荒らげてそう言った。
即座に謝罪の言葉を口に出す彼女に、彼は息を吐き出す。
それから、コウの髪をクシャリと撫でた。

「無事でよかった。…じゃ、最後の仕上げといくか!」

そう言って自分に向けられた笑みに、コウは身体の奥で何かが疼くのを感じた。
はい、と小さく頷き、両の手にイノセンスを構える。


「これだけは言っておくよ」
「何ですか?」
「ブックマンを愛してはいけない。きっと…幸せになれないから」

08.01.07