見下ろす白哉と、その向こうに見える染み一つない天井。
こんな風に彼を見上げるのは、もう何か月ぶりだろうか。
夫婦の営みなど、元々ないに等しい。
義務的な行為の中で自分を見下ろす白哉の目は、いつも無感情だった。
それなのに―――どうして、今の彼の目には、感情が見えているの?
睡蓮
例えその感情が怒りに近いものだとしても、そうとわかる何かを見たのは、いつ以来なのだろう。
昔は割と頻繁に見えていたはずの白哉の感情は、彼が当主となる少し前から失われ始めていた。
紅が藍染の凶刃に倒れたあの時の激昂した白哉の姿を、意識のなかった彼女は知らないのだ。
「白哉、様…?」
「お前はそうやって…私の知らない所で消えるつもりなのか…?」
彼は怒りに震えそうになる声を、必死に抑えていた。
布団に縫い付けられた両手首が痛い。
けれどそれ以上に、彼にこんな表情をさせている事実が苦しい。
何が彼をそうさせているのか、彼が何に怒りを感じているのか―――紅にはわからなかった。
「それは、いけないことですか?私と言う毒は、いずれ朽木家に災いをもたらすかもしれない。
早めに取り除くべきなのです。ですから…死ぬも生きるも、白哉様とは関係せぬ場所で」
本当は、ずっと彼の傍にいたいと思う。
けれど、そう願うのは許されないことなのだ。
敵の情けに生かされ、得体のしれない何かを抱えてしまった身体。
全ては自らの力量不足が招いた結果であり、嘆くことは許されない。
「お前は朽木家からは出さぬ。離縁もせぬ」
「あなたが厄介を抱え込む必要はないのです!私を放り出せば朽木家は守られる!」
「そうして、お前は私の手をすり抜けていくのか―――紅」
その声に滲んだ切なさに、紅は言葉を失った。
―――どうして、そんな声で名前を呼ぶの。
―――どうして、そんな目で私を見つめるの。
その目に映るのが、自分なのだと誤解しそうになる。
「お前はいつも…自らの唇を噛み締める」
白哉の片手が紅の腕を離れ、その指先が唇を撫でた。
噛み締め、血が滲む寸前のそこに触れる彼の熱。
促されるように緩んだ唇からは、僅かな音すらも零れ落ちなかった。
「昔は、もっと色々なことを話していた。お前の心が…近かった」
「………あなたは、残酷なことを仰るのですね」
驚きにより止まっていた涙が、視界を滲ませる。
昔は、何も知らなかった若かった頃は―――確かに、二人の心は寄り添っていただろう。
理想とする未来を思い描き、口にしたことだってある。
けれどそれはあくまでも理想であり、必ずしも訪れる未来ではなかったのだ。
少なくとも、紅にとっては。
「今更…昔に戻れるとお思いですか?」
「…何…?」
「私がどれだけあなたを想っていようと、あなたの心にはいつだって緋真様がいる。
そんな状況でどうして、何もなかったあの頃に戻れるとお思いになるのですか?」
寄り添う努力をしてきたつもりだ。
けれど、そうすればするほどに、緋真の存在が紅に影を落とす。
傍にいられるだけで構わないと思っていたはずなのに、それ以上を望む自分の愚かしさ。
それを感じていた矢先に、白哉からあの話を持ちかけられた。
もしかすると、自分は―――死に場所を探していたのかもしれない。
全てを忘れ、解放される場所を求め、それが油断に繋がったのだろう。
「“解放する”と…あなたは、そう仰いました。…どうか、私を解放してください」
私の、最後の願いです。
これで全てを終わりにしよう、そう決めて、その言葉を口にする。
涙は隠せていないけれど、その覚悟だけは伝わっているだろう。
紅は次から次へと伝う涙をそのままに、そう懇願した。
今、彼の元を去れば、何を施されたかわからない身体が迷惑をかける事もない。
傍にいたいと願う心よりも、彼の傍が苦しいと思う感情が大きくなった今しか、その時はないと思った。
「かつて…共に描いた時を歩む事は出来ぬと?私の傍らで朽木家を守ると言ったあの言葉を、忘れたのか?」
「それは…もう、昔の話です」
あれから長く時が流れ、二人とも、もうあの頃の二人ではなくなっている。
一度見た夢をもう一度思い描くには、多くの事を知りすぎていた。
「…ならぬ」
「白哉様…わかってください。私にはもう、緋真様の代わりにあなたを支えることは出来ません…っ」
本当は口にしたくはなかったけれど、納得してくれないならば言わなければならない。
もう無理なのだと訴える紅に、白哉は彼女の頬に手を添え、流れる涙を拭う。
「緋真の代わりなど、望んだ事はない」
「…っそう、ですね。代わりなど…身の程を知らぬにも、程がある」
「紅、私は卑下しろとは言っておらぬ」
自嘲めいた表情を浮かべた彼女にそう告げるも、彼女は逃げるように視線を逸らした。
「もう一度言う。お前を離すつもりはない」
「私は…!もうあなたの傍には居られません!」
これ以上の話は無用だとばかりに、身体を起こそうと腕に力を込める彼女。
しかし、ほんの少し浮いた身体は、すぐにその場へと縫い付けられた。
押さえつける腕の力に思わず眉を寄せる。
「言葉で―――」
白哉の声が低く、そして鋭さを帯びた。
こんな声を聞いた事はないと、紅は驚いたように彼を見る。
「言葉で伝えねば、わからぬのか…?」
「白哉、様…?」
「言葉にせねばわからぬのか!愛していると!」
時間が止まったのかと思う。
呼吸すら忘れ、白哉を見つめる紅の目に映るのは、困惑。
「そ、んな…言葉は…」
「偽りだ、と?」
「っ!だって、でも…あなたは、緋真様を愛している!そうでしょう?」
いつもの丁寧な口調を忘れ、戸惑いのままに声を上げる紅。
そんな彼女に白哉は、昔はよくこんな風にしていたと懐かしさを感じた。
「緋真を愛した感情は変わらぬ。だが、お前を愛している」
白哉の中から緋真の存在が消える事はないだろう。
しかし、それとは別に、紅に対する感情も確かに存在しているのだ。
「信じられぬならそれでも構わぬ。ただ、私の傍に居ろ」
頬を包む手に、そっと自身の手を重ねてみる。
こうして触れることが出来るのに、この手はまだ、心までは届かない。
けれど―――それでも。
「紅」
名を呼ぶ声が優しい。
まるで、愛しい者を呼ぶその声に、浅ましくも願ってしまう。
―――信じてしまいたい、と。
そうする事で傷付く結果になったとしても、この人を信じたいと思ってしまう。
「紅―――愛している」
告げられる言葉は、まだ遠い。
11.06.18