紅を朽木邸へと連れ帰り、そして彼女の侍女へと預ける。
自室へと向かう彼女の背を見送った白哉に近付いてくる家人。
「白哉様、お帰りなさいませ」
「留守中、何もなかったか?」
「それが…」
語尾を濁す爺に、白哉の眉がほんの少しだけ動く。
彼のこういう反応には碌な事がないと知っているからだ。
睡蓮
「此度の紅の一件、白哉様には多大なご迷惑をおかけいたしました。心よりお詫び申し上げます」
そう言って深々と頭を下げるのは、雪耶家の当主―――つまりは、紅の父だ。
白哉にとっては義父と言う位置だが、家柄は比べるまでもない。
傍から…貴族の階級を知らぬ者からすれば、高齢間際の男性が若い白哉に頭を下げる光景は異常かもしれない。
だが、貴族の中ではこれがごく普通の世界なのだ。
「頭を上げられよ、雪耶殿。そなたの息女は部下を逃がしてその場に残った。死神として誇っていい」
「しかし、敵に捕らわれ情けを受けた。いや、情けならまだ良かったかもしれませんが…」
続きを躊躇う彼に、白哉は既に四番隊からの連絡が行っているのだと気付いた。
紅の身体に、藍染の手による何かが施されたことも、知っているのだろう。
「白哉様、此度はお願いがあって参りました」
ほんの少しの躊躇いを滲ませ…けれど、彼は背筋を伸ばし、当主として…何より父として、そこにいた。
侍女が止める声も聞かず、紅は重い身体を引きずってその部屋までやってきた。
父が来ていると聞いて、黙って寝ていられるはずがない。
嫁いだ娘に、不必要に家の敷居を跨がせることを良しとしないような厳しい人。
後妻として朽木家に入ることを、最後の最後まで反対していた人。
今この時に彼が白哉の元を訪れる―――挨拶や近況報告が目的であるはずがない。
「白哉様、此度はお願いがあって参りました」
襖に手をかけたところで、中の声が聞こえた。
数ヶ月は聞いていなかった、父の声だ。
思わず紅の手が止まる。
「申されよ」
「娘を…紅をお返しいただきたい」
ひゅっと喉が鳴る。
本能である呼吸の仕方を忘れたように、声だけでなく吐息すらも失った。
蒼かった顔色が、それを通り越して紙のように真っ白になっていく。
「此度の一件は、死神であったが故のこと。死神として護廷に入らなければ防げたこと。
紅が望み、白哉様がお許しになった以上、我々に口を挟む権利はない。ですが―――どこに嫁ごうが娘は娘」
―――健やかに生きていてほしいと、願っているのです。
父の言葉はすとんと胸に届いた。
思えば、彼の口からは反対や躊躇いの言葉ばかりを聞いていた気がする。
こんな風に、自分の身を案じるような言葉は、初めてだった。
呼吸を取り戻すのと同時に、ジワリと涙腺が緩む。
「―――雪耶殿」
落ち着いた白哉の声が聞こえ、紅は零れそうになる涙を堪えた。
「私は―――」
「失礼いたします」
何事もなかったような平然とした顔を作り、紅は襖を開いた。
白哉の答えはわかっている―――けれど、彼の口から決定的な言葉を聞きたくない。
必要とされなかった自分を、否応なしに自覚することになるから。
「父上、お久しぶりでございます」
襖のところで膝をつき、二人に向かって頭を下げる。
顔を上げた紅は、今回の一件など微塵も感じさせないいつも通りの笑顔を浮かべた。
「紅…久しいな。息災か?」
元気そうな紅を見て、父はほっとした様子で表情を緩めた。
四番隊から話を聞いてから、彼女を見たのはこれが初めてなのだ。
どんな状況なのかと悪い方へ案じていた思考が、少しだけ軌道修正された。
「はい。先ほどのお話ですが…父上。白哉様に改めて申し出る必要はありません」
「…何?」
「今回、私の不始末で少し伸びておりましたが…私は既に離縁の―――」
「紅」
先ほど紅がしたように、白哉が彼女の言葉を遮った。
彼の方へと視線を動かすと、感情の見えない目が彼女を見つめている。
「部屋に戻れ」
「……しかし…」
「私が話をしておく。今は身体を休めよ」
有無を言わさぬ声色に、本能的に「わかりました」と答えてしまう。
おろおろと紅の動向を見守っていた侍女に連れられ、彼女は自室へと向かった。
眠ることなどできるはずがない。
本当ならばこう言う時は斬魄刀の手入れをして心を落ち着かせたい。
けれど、焔霞は紅の手元になかった。
ふと、手持無沙汰と言える時間を持て余していた紅が、近付いてくる白哉の気配を感じた。
横たえていた身体を起こし、着物の乱れを整えて彼を待つ。
やがて、襖を開けて部屋の中に入ってきた彼は、紅の布団の傍らに腰を下ろした。
「父は…?」
「帰られた」
「そうですか。見送りも出来ず申し訳ありません」
「構わぬ」
そうして途切れる会話。
沈黙に耐えかねた紅が、そっと視線を落とした。
それを合図に、白哉が小さく口を開く。
「紅、離縁の話は白紙に戻す」
最後通告だと思っていた言葉は、その逆の内容だった。
思わず顔を上げた紅は、訳が分からないと言った様子で問う。
「…何故、ですか?」
「………監視下に置かれることが決まったお前を、私が引き取った」
それだけで答えとしては十分だ。
つまり、監視役は白哉―――実力、紅との関係…状況を考えれば、最も相応しいと言えるだろう。
「では、私をあなたの目の届くところにおくために…」
白紙に?
言葉の続きを吐き出すことは出来なかった。
自分はどこまで、彼の邪魔をすれば気が済むのだろうか。
わかりましたと笑顔で離れることも出来ず、重荷として彼の負担を増やすしかできない。
こんな自分が、心底嫌になる。
自己嫌悪の感情を無理やり胸の奥へと引きずり込み、代わりに笑顔を浮かべる。
「どうか、気にせず離縁してくださいませ」
「私では気に入らぬと?」
「これ以上、白哉様に…朽木家にご迷惑はおかけできません。私は他の隊長の所に参ります。
それが叶わないなら…自ら牢へと入りましょう。…何かあってからでは、遅いのですから」
声は震えていなかっただろうか。
顔は、笑っていただろうか。
最後までそう言い切ると、紅は白哉の視線から逃げるように顔を背け、掛布団を手に取った。
「身体の調子が戻らないようですので、休ませていただきます」
彼に背を向けるようにして横たわるのと同時に、涙が溢れた。
声を出さないように、肩を引き攣らせないように―――ひたすら耐える。
どうか早く去ってほしい、この涙に気付かないうちに―――ただそれだけを願う。
そうして、彼の気配が動き―――世界が、反転した。
11.06.12