身体の中で、何かが変わっていく。
何がどう、と説明する事はできない。
けれど、確かに…何かが変化していた。
睡蓮
「姉様…っ」
病室に駆け込んできたルキアは、ベッドに横たわる紅を見て悲痛な声を上げた。
流魂街の一角で倒れていたところを発見された紅は、そのまま四番隊へと運ばれたらしい。
「命に別状はありませんよ」
「卯ノ花隊長…」
部屋に入ってきた卯ノ花の言葉に、ルキアは安堵の溜め息を吐き出した。
そんな彼女を見て、卯ノ花は神妙な表情を浮かべる。
卯ノ花の手には紅の検査報告書が握られていた。
しかし、ルキアが振り向いた時には、彼女はいつもの穏やかな笑顔を浮かべていた。
「姉様はこの後どうなるのですか?」
「そうですね…。色々な検査もありますし、暫くは様子を見なければなりません」
「…わかりました。よろしくお願いします」
ルキアは卯ノ花に向かって深々と頭を下げた。
そして彼女が上体を起こしたところで、開かれたままの扉の所から白哉が姿を見せる。
兄様、と小さく呼ぶと、彼はルキアを一瞥して紅へと近付いた。
無言のまま彼女を見下ろしていた白哉は、不意にルキアの方を向く。
「仕事に戻れ」
「しかし…」
「後は私が引き受ける」
それ以上の説明をするつもりはないのか、縋るようなルキアから視線を外してしまう。
紅を案じて、彼の言葉通りに動く事のできないルキアを見て、卯ノ花が口を開いた。
「紅さんのことは、朽木隊長にお任せしましょう。ルキアさんにはご自分の仕事もあるでしょう?」
「…はい」
不本意ながらも、これ以上は自分のわがままでしかないのだと理解した。
ルキアは二人に向かって一礼し、後ろ髪を引かれながらも病室を後にする。
彼女が立ち去るのを見届け、卯ノ花は持っていた報告書を白哉に差し出した。
「目を通していただけば、説明は必要ないでしょう」
卯ノ花の言葉に、白哉は無言でそれを受け取った。
一枚目、二枚目とそれを読んだ彼は、やがて静かに卯ノ花へと返す。
「虚圏に居た事は間違いないようだな」
「…そうですね。付着していた繊維の解析結果を見れば、まず間違いはないでしょう」
「治療の必要は?」
「四番隊で出来る事はありません」
そう言って卯ノ花は首を振る。
彼女の返事に、そうか、と短く答えた白哉は、ゆっくりと動かした手を紅の額に乗せた。
「…紅は私が引き取る」
「わかりました。技術開発局に局員の派遣を依頼しておきましょう」
「手間をかける」
「いいえ。私にはこれ以上の事は出来ませんから…」
卯ノ花が点滴を外し、用意を整える様を黙って見つめる白哉。
傍目から見た彼の表情は、いつもと変わらないもののようにも思える。
しかし、その心中は複雑な思いを抱えているだろう。
「朽木隊長。影響を受けただけの可能性もあります。あまり深刻に考えるべきではないでしょう」
そう言うと、彼女は手続きのために部屋を出て行った。
紅と二人だけになった部屋の中、白哉は何も言わず彼女を見下ろした。
その時、彼女の瞼が動く。
眩しげに強く瞼を絞り、その後ゆっくりと開かれていく。
焦点の合わない様子の目が周囲をさ迷い、白哉へと辿り着いた。
「…白哉、様…?」
まるで幻でも見ているかのように、紅は不安げにその名を呼んだ。
「…紅」
白哉は伸ばされた手を取り、彼女の名を紡ぐ。
そんな彼の行動に紅は安堵したように微笑み、しかし次の瞬間、表情を強張らせた。
パンッと音を立てるほどに激しく彼の手を振り払う。
「申し訳ありません…!私は…っ」
自身の手を抱きしめて謝罪の言葉を口にする彼女の表情は青褪めている。
そうして身体を震わせる彼女に、白哉は、紅、と冷静な声を発した。
「白哉様、私に近付いてはいけません…!」
「紅」
「あの時から私の中で何かが変わって…っ!」
「紅」
「私は自分が恐ろしい…っ」
紅は肌が白むほど強く手を握り締め、涙を零し始めた。
白哉の声を逃れるように頭を振り、まるで殻の中に篭るように身を縮める。
そんな彼女の痛々しい姿を見て、白哉の表情が僅かに歪んだ。
彼は距離を取ろうと身を引く彼女の手を強引に掴み、引き寄せる。
嫌だ、駄目だと叫ぶ彼女の目の前で、彼女の手に口付けた。
あまりに予想外の出来事に、紅の目が最大限まで見開かれ、その動きが止まる。
「紅。もし変わっていたとしても、ここには私がいる」
「白、哉…様…」
「何を恐れているのかはわからぬ。落ち着いて、一つずつ話せ」
いつもと何一つ変わらない冷静な声が紅を落ち着かせた。
興奮の名残の弾む呼吸を肩で整え、彼女はベッドに横たわる。
振り払おうとしていた手は、いつしか縋るように彼の手を握り返していた。
「…虚を倒し、滅びるはずだったところを、藍染によって助けられました」
紅は天井を仰ぎ見ながらゆっくりとした口調で話し始める。
「何一つ、斬魄刀すら制限されず、私は彼の治療を受けました」
「何をされた?」
「…わかりません。初めの頃の私は、腕一つを動かす事もままならない状態でしたから…」
そう言うと、紅はそっと白哉を見つめる。
「検査結果は…どのように?」
「………魂魄に虚に似た反応が見られた。破面との関係を調べるため、監視下に置かれることになるだろう」
「…そうですね。私も…その方が安心です。寧ろ、出来るなら牢に閉じ込めてほしいと思います」
紅がそう言うと、彼女の手を握る白哉のそれに僅かな力が篭った。
それを感じた紅は、視線を動かして彼を見る。
「…隊長への推薦は、撤回される事になるでしょうね」
紅はあえて話題を変え、小さく微笑んでそう言った。
「…不満か?」
「いいえ。寧ろ、安心しています。実力のない者が上に立つべきではありませんから」
それは彼女の本心だったのだろう。
迷いも何もなくそう告げた彼女に、白哉はそうか、と頷く。
「申し訳ありません。あの日、任務から帰ることが出来ず…その上に迷惑ばかりをかけてしまって…」
今も、この手を離さなければならないとわかっているのに…指が、手が、それを拒んでいる。
身体は本心に忠実だった。
「…今は考えるな」
白哉はそう言って空いた手で紅の額を撫でた。
その感覚にそっと瞼を伏せた彼女。
いずれこの手を離さなければならないけれど―――今だけは。
自身の中から迫る不安から逃れるように、小さな優しさに身を任せていた。
10.04.03