死ぬ事も止むなしと思っていた。
虚を滅し、そして自分の意識が消える直前に考えたのは、やはり彼のこと。
こんな形で会えなくなるのならば、一言伝えておけばよかったと。
浮かんだ思いは後悔に他ならなかった。

睡蓮

治療と称して、中身のわからない薬を打たれた。
もちろん、それを甘んじて受け入れたつもりはない。
だが、いくら抵抗しようとしても弱りきった身体の彼女と、虚を超えた破面では結果は見えていた。
藍染様のご命令です、と腕ひとつで押さえられ、死覇装を捲くられた腕に針が刺さる。
液体が冷えていたのか、注ぎ込まれると同時に痛覚が反応した。
注射器の中身が全て身体の中に入ると、破面は彼女を解放する。
しかし、傍にある刀を抜く事はできなかった。
糸が切れたように全身の力が抜け、指先すらも動かす事が出来なかったのだ。
戸惑いだけで破面が部屋を出て行ったことにも気付かなかった一度目。
三度目になれば、その薬の効力も徐々に見えてきた。
少なくとも今のところ身体に妙な不調はない。
逆に、体内の調子が少しずつ整ってきているのを感じた。

「…何を考えているの…?」

紅は一人の部屋でそう呟いた。
藍染にとって、紅を治療する事の利益はないはずだ。
彼女は彼を敵と認識しているし、彼もそれを理解しているだろう。
それなのに、何故治療を続けるのか。
その理由が五番隊の隊員を助けたからとは思えなかった。
考え込むように沈黙していた紅は、やがて溜め息と共に立ち上がる。
こうして動けるようになったのが藍染のお蔭だと思うと癪だが、状況が状況だけに止むを得ない。

「焔霞」

刀を抜刀してそう名を呼べば、焔の化身が紅の周囲に現れる。
蝶が刀身に触れ、白銀のそれが赤く染まった。

「弐式」

そう唱えつつ、袈裟懸けに刀で空を斬った。
刀の軌道を一枚の焔が飛ぶ。
まっすぐ飛んだそれが白い壁を一直線状に貫く。
もう一度同じように刀を振り、逆の角度で壁を焼いた。
三角形に縁取られたそこを強く蹴れば、壁がぽっかりとその口を開く。
部屋は、風が鳴るような高い場所にあった。

「…ここが、虚圏…」

感じる風が違う。
感じる匂いが違う。
目に見える風景が違う。
生きる世界が違うのだと、痛感した。










「紅さん、逃げたみたいやで」
「…そうだろうね」

玉座に腰掛け、微塵も驚いた様子もなくあっさりとそう答える藍染。
いつか彼の首を取りに来るかもしれない紅に、何故治療を命じたのか。
市丸自身も疑問だった。

「…そろそろ、か」

口元に笑みを浮かべ、藍染がそう呟いた。
その言葉に疑問符を抱く前に、広間の入り口に人の姿が現れる。
それは、先ほど話題に上がっていた紅だった。

「律儀な君ならば、何も告げずにここを去ることはないと思っていたよ。尤も…ここを出る術もないだろうが」

警戒するように紅の肩辺りを蝶が舞う。
その度合いを示すように、舞い落ちた鱗粉が床を焼いた。

「あなたが何を考えていようと、私がそれに賛同する事はないわ」
「君の居場所が尸魂界に存在していなくても、かい?」
「―――――」
「朽木は君を解放するよ。君が最も望まない形で」

紅の目が冷めた殺意を見せた。
それでも感情のまま斬りかかってこない彼女を見て、藍染は目を細める。
そして、指先を動かして彼女のすぐ脇に空間の亀裂を作り出した。

「黒腔を繋いであげよう。君には無理だろうからね」
「な、にを…」
「帰りたければ、そこを通って帰ればいい」

裏がないとは思えない言葉だ。
しかし、それ以外に方法がないことも事実。
紅は今、究極の選択を迫られている。
僅か数秒間の間に、様々な可能性が紅の頭の中を駆け巡った。
そして―――紅は開かれた黒腔に向かって歩き出す。

「私を疑わないのか?」
「疑っていて動かなければ何も変わらない」

紅が動き出せば確実に何かが変わるのだ。
その良し悪しはわからないけれど。
それ以上彼の言葉を聞かないように、紅は黒腔へと足を踏み出した。










快適とは言えない空間を僅か数秒で進み、黒腔を出る。
吸い込んだ空気が馴染みのものであると悟ると、身体から緊張が解けた。
肩の力が抜け、同時に身体の芯の力も抜ける。
要するに、まだ回復していなかった身体を酷使した事により、その限界が訪れたらしい。
消えるはずだったと言う言葉もあながち間違いではなかったのだろう。
もはや指先ひとつを動かす事も億劫で、膝が崩れるままにその場に倒れこむ。
指先が直に地面に触れ、心中で苦笑した。

「…こんな風に地面に伏す事なんて…」

修行中も、床板の上に転がる事はあっても地面に転がる事はない。
貴族の家に生まれ育った自分が、こんな風に地に伏す日が来るとは、想像もしていなかった。
悔しくない、恥ずかしくないと言えば嘘になるだろう。
しかしそれ以上に、違う世界に触れたような…そんな気分だった。
徐々に霞みがかってくる意識。
それに抗うことなく、そっと静かに目を閉じた。

10.03.28