「紅姉様、ルキアです」
襖の前に座し、その向こうにいる紅に向かって声をかける。
短い沈黙の後、返事が聞こえた。
「何か…あった?」
「―――話は、聞きました。一度、兄様と話し合っては如何ですか?兄様もそれを望んでいます」
紅の声が違う事に気付き、ルキアは殊更静かにそう言った。
彼女を刺激してはいけないと、細心の注意を払う。
「…ごめんなさい。明日は早番だから…お話しするのは、明日になるわ」
常であればすぐに開かれる襖。
それが閉ざされたままだと言う事が、彼女の心情を表わしているようだった。
ルキアは、今は無理強いすべきではないと考え、小さく息を吐く。
「わかりました。では、明日と言う事を兄様に伝えておきます」
「…ええ、ごめんなさいね」
こんな時だと言うのに、他人に対する気遣いを忘れない彼女に、ルキアはぐっと唇を噛む。
ずっと彼女を見てきたから、今、彼女がどんな気持ちなのかが痛いほどにわかる。
「姉様…大丈夫ですか?」
大丈夫なはずがないのに、そんな言葉をかけてしまった。
紅からの返事はない。
大丈夫ではないと言えば今以上に心配させてしまうし、大丈夫だと言えば嘘になる。
沈黙こそ、彼女の答えだった。
「…今日はゆっくりお過ごしください。おやすみなさいませ」
返事を待たず、ルキアは襖に向かって頭を下げた。
睡蓮
その翌日。
ルキアが起きた時には既に紅の姿は屋敷の中にはなかった。
白哉は非番だと聞いている。
「では、行って参ります」
「…気を抜かぬよう」
偶々廊下で出会った彼に頭を下げ、ルキアもまた屋敷を後にした。
隊舎に向かう途中、ルキアは人の声を聞き、足を止める。
その声が姉、紅のものだったからだ。
気配を探り、彼女のいる場所へと向かうルキア。
見つけた紅の傍らには、浮竹と京楽の姿があった。
「近いうちに正式な打診があると思うが…」
「その件については、以前もお断りしていますけれど…今回は、そうも言っていられないようですね」
「そうだな。少なくとも、護廷十三隊のうち、三隊の隊長が消えている今は難しいだろう」
どうやら、話は深刻な内容らしい。
立ち聞きは良くないと思いつつも、ルキアは息を潜めて声の届くところに留まってしまう。
「君の実力なら申し分ないよ。その点は安心していい」
「京楽隊長にそう言っていただけることは光栄です。けれど、私は…」
「雪耶の家に関しては、俺たちが口を出すべきではないが…白哉は、君の昇進を喜ぶと思うぞ?
それに、死神として高位を目指す事は、君の夢だったはずだ」
浮竹の言葉に、ルキアは一瞬呼吸を忘れた。
―――姉様の、夢?
そんな事、知らなかった。
「…本来であれば死神を目指す事すら許されない身です。私には、今以上に望む事などありません」
「じゃあ、雪耶と朽木が納得すれば、今回の話を受けるつもりはある?」
「………ありえない、と思いますが…もし、そのような事があれば―――考えます。
ですが…白哉様は関係ありません。これは、私の家の問題ですから」
後半の言葉に胸が痛む。
それは、もうすぐ白哉との関係がなくなることを示しているのだろう。
違うのだと声を上げたい。
けれど、それを伝えるべきは自分ではない。
ルキアはぎゅっと手を握り締めて耐えた。
その時―――ふわり、とルキアの視界を地獄蝶が飛んでいく。
ひらり、ひらりと飛んだそれが、紅の元へと向かっていく。
「…流魂街に向かわなければならないようです。お二方、これで失礼します」
気をつけて、と言う言葉に見送られ、紅の気配が消える。
「立ち聞きは良くないぞ、朽木」
「!?」
ビクッと肩を揺らしてしまう。
聞こえた声に勢いよく振り向くと、いつの間にか浮竹と京楽がそこにいた。
「も、申し訳ありません!つい…」
「まぁ、気持ちはわかるが…。ところで、朽木はあの言葉の意味がわかるのか?」
「あの言葉、と言いますと…?」
「“白哉は関係ない”。紅の言葉とは思えないんだが…」
そう言って頭を掻く浮竹に、ルキアはぎくりと身体を強張らせた。
自分はその言葉の意味を理解している。
だが、それは安易に口にすべきものではない。
そんなルキアの心中を察したのか、浮竹は苦笑を浮かべて首を振った。
「言えないことなら言わなくていい。ただ、紅らしくないと思っただけだからな」
「…はい」
励ますように肩を叩かれ、ルキアは静かに頷く。
それから、意を決して二人を見上げた。
「あの…雪耶家と言うのは、そこまで厳しいのですか?」
ルキアの言葉に二人が顔を見合わせる。
「…朽木家ほどではないけれど、名家だからな。それに、彼女は一度婚約を破棄された事を負い目と感じてる」
「彼女が朽木に嫁ぐ時点でかなり色々とあったからね…これ以上、家に背きたくないんだろう」
本来、嫁いだ先の家に従えばそれで十分なのだが、紅は雪耶の家にも縛られている。
自らの行動が両家の不利益にならないよう、気遣って動いているのだ。
「彼女は幼い頃からそう言う環境で育ってきているから、その枠を抜ける術を知らないんだ。
もっと自由に生きていいと思うけど…こればかりは、他人が口出しする事じゃないよ」
「…お二人は、姉様は隊長に昇格すべきとお考えですか?」
ルキアにとっては、素晴らしい昇進だと思う。
彼女が強いと言う事は知っているし、下の者への配慮もできる人だ。
きっと、隊長としても上手くやっていけると…そう思っている。
「すべきかどうかを判断するのは、僕たちの役目じゃないよ。もちろん、素晴らしい隊長になると思うけどね」
「上に立つ覚悟が必要だ。周囲が認めても、本人にその意思がなければ勤まらないだろう」
二人の答えは曖昧で、ルキアの望むものではなかった。
しかし、自分の考えが甘いと言う事だけはわかる。
隊長になると言うのは、それだけの重責を覚悟しなければならないものなのだろう。
「さて、そろそろ行った方がいいぞ、朽木。このままだと遅刻だな」
「え…あ!!し、失礼します!!」
仕事に向かう途中だった事をすっかり失念していた。
青褪めたルキアは、急いで二人に頭を下げ、その場を後にする。
きっと、夜になれば二人が話し合って…状況が変わるだろう。
できればよい方向に動けばいいと、その時はそんな風に安易に考えていた。
けれどその日、紅は瀞霊廷に帰ってこなかった。
10.03.10