「紅、話がある」

屋敷に帰るなり、白哉は静かにそう言った。
玄関で彼を出迎えた紅は、その様子に心中で首を傾げる。
しかし、玄関先で立ち話をするものではないと思い出し、わかりました、と頷く。

「では、後から白哉様のお部屋に参ります」
「かまわぬ。私が行く」

紅の返事を聞いた白哉が、彼女の隣を抜けて歩き出す。
その横顔がどこか思いつめているように見えて、紅は一旦彼の背中を見送ってしまった。

睡蓮

「話…」

何だろうか。
紅はその場で考え込む。
まだルキア関連の問題が残っているのだろうか。
隊で何か新しい問題でも起こったのかもしれない。
もしくは…紅自身の問題なのか。
彼が何を話そうとしているのかは分からない。
けれど、それは自分にとって良くない物のような気がする。
その考えの根拠はなく、勘としか言いようがないけれど。
紅は白哉が去った方を見つめ、悲しげに目を伏せた。







隊の仕事が立て込んでいたらしく、白哉は瀞霊廷で夕食を済ませてきたらしい。
その連絡を受けていた紅も既にルキアと夕食を済ませており、後の予定は特にない。
白哉を待つ時間で、紅は実家に宛てた手紙を書くことにした。
最近あまり具合が良くないと聞く祖母の様子を尋ねる内容だ。
本当は顔を見て様子を確かめたいのだけれど、既に嫁入りした身であまり実家に顔を出すことは出来ない。
家族に宛てた近況伺いの後、自身の状況を連ねて行く。
そして、いよいよ確信である祖母の話に移ろうと言う所で、襖の向こうに人の気配を感じた。

「紅」
「はい。どうぞ、お入りください」

墨をつけた筆を置き、文机を部屋の隅に移動させながら襖の方へと向きを変える。
スラリと襖を開いた白哉は、そこから進もうとしなかった。

「椿の間に行くが…すぐに出られるか?」
「?はい」

わざわざ場所を変える事に多少の違和感を覚えつつも、腰を上げて白哉の元へと歩く。
椿の間―――離れへの道は、そう遠くない。
部屋の中は既に暖かく調整されていて、彼が用意してくれたのだと知る。
促されるままに彼の正面に腰を下ろす紅。
短くない沈黙が室内を満たす。

「―――雪耶の当主は息災か?」

漸く口を開いた彼の言葉に、紅は珍しくもきょとんとした表情を浮かべる。
当主…つまり、紅の父のことを尋ねられているのだということはわかる。
だが、なぜ今この状況にそれが関係してくるのか。

「…祖母の具合が良くないそうで、それを案じているでしょうけれど…父自身は息災と聞いております」

理由がわからなくても、紅は白哉の問いかけに答えた。
それを聞いた彼は静かに、そうか、と呟く。

「…お前が朽木家に嫁いで50年―――良き当主である事のみを考え、良き夫であろうとはしなかった」
「…それは…」
「家のためと、お前が無理をしていることを知りながら、私はそれを当然と気にもかけていなかった。
お前を案じたルキアの言葉も、聞く事すらしなかった」

冷めたと表現しても差し障りない、冷静な声。
まるで他人事を話すような彼の言葉に、紅は戸惑いを覚えた。
いつもの彼とは、何かが違う。

「お前はよく尽くしてくれた」
「白哉、様…?」
「紅、お前を…私から、解放しようと思う」

解放―――それは、つまり。
紅は言葉を失った。

「幼き頃、まだ許婚と言う立場でありながら、お前が朽木家の教えを受け、その掟を学んでくれた事を知っておる。
身勝手にその繋がりを絶った私の元へと嫁ぎ、朽木家にとってこの上なく良き妻として過ごしてくれた」

白哉の言葉を呆然と聞く紅の耳には、淡々と語られる言葉は遠い。
その意味を理解する事を、頭が拒んでいるようだった。

「これからは、我が朽木家に縛られる事なく、思うままに生きてほしい。それが私にできる唯一の礼だ」

これが、彼にとって最良の方法であると考えている事だけは、理解できた。
紅がそれを望んでいない事など、彼にはわからないのだろう。
彼女は自らこの道を選んだのだ。
それを苦痛だとか、縛られていると感じた事は一度だってない。
紅が望んでいる事は、たった一つだけだったから。

「…あなたは…」
「紅?」
「あなたは…何も、わかってくださらなかったのですね…」

それがただ、悲しい。
どれほど彼の傍にいたいと望んでも、彼の心は別のところにあるのだと痛感させられているようだ。
緋真と同じように愛してほしいとは思わない。
ほんの少しでも自分に向けてくれるものがあればと…そう、思っていただけ。
それすらも高望みだったのだ。
紅はこみ上げる涙を堪え、俯いた。
彼に悟られないようにと深く呼吸をし、熱い目元を押さえる。

「―――わかりました。今まで、お世話になりました」

顔を見せないよう深く頭を下げ、そのまま立ち上がって離れから出て行く。
途中、堪え切れなかった涙が頬を伝った。
自室へとたどり着くなり乱暴に襖を閉ざし、それを背に崩れるように座り込む。

「どうして…。私は、そんな事を望んでいないのに…どうして…っ」













「兄様…今、なんと?」

白哉に呼び出されたルキアは、彼の口から告げられた言葉に目を見開いた。
自分の耳がおかしくなければ、彼は「紅と離縁する」と言った。

「紅と離縁する、と言ったのだ」
「何故…!?」
「…いずれ、お前も耳にする事になるだろうから伝えておくが…紅は欠けた隊長へ推薦されている。
今までは紅自身が高い席次を求めていなかった故に私が断ってきたが…此度はそうもいくまい」

藍染たちが残した傷跡は大きく、欠けた三つの隊長の席は未だ埋まっていない。
それに相応しい実力を持つ紅に白羽の矢が立つのも、ごく自然な流れだ。
ルキアにもそれは理解できるけれど…何故、二人が離縁しなければならないのか。

「紅は私と並ぶ事を良しとしない。此度の隊長への抜擢も、それを理由に断るつもりだろう」
「…では、兄様は紅姉様が隊長の推薦を受けられるようにと、離縁を?」
「………それは理由のひとつに過ぎぬ。目的は…過ぎるほどに尽くしてくれた紅を解放する事だ」

白哉は庭を見つめてそう告げた。
そんな彼を見て、ルキアは何故、と思う。
何故、この二人はこんなにもすれ違ってしまうのか。
白哉はこれが紅のためと思っているし、紅は白哉の考えに従う事がすべき事だと思っている。

「恐れながら、申し上げます。お二人は大きな勘違いをしている…一度、姉様と話し合うべきです」
「…話し合う必要があるのか?」
「兄様にとって、姉様が必要でないのならば離縁なさることもやむを得ないでしょう。
ですが、今回の事が姉様のことを思っての行動ならば、そうすべきです」

相手のことを思って行動することが悪いわけではない。
相手に何も伝えない事が悪いわけでもない。
二人には、お互いが理解しようと、理解されようと歩み寄る事が必要なのだ。
未だかつてないルキアの強い言葉に、白哉は暫し沈黙した。

「…ルキア、紅を呼んでくれるか」
「私でよければ、喜んで」

10.03.09