地獄蝶が伝えてきた内容に、紅は目を瞬かせた。
まさか、と言う考えが浮かぶと同時に、どこか納得させられてしまう。
ルキアを大切に思う彼が、黒崎一護と言う少年を意識していた事は確実だ。
彼もまた、自分の思いと役割の狭間で揺らめいていた一人だから。
睡蓮
飛ぶように廊下を走り、白哉の気配のある部屋へと滑り込む。
「隊長」
この一言で、彼女が仕事上の話で彼の元へやって来たことがわかる。
「副隊長が懺罪宮近くで発見されました。重傷、意識不明―――救護が必要です」
紅は白哉の背中に向かってそう告げた。
彼の所に報告が来ているのかは分からない。
「旅禍は捕らえたか?」
「いいえ、阿散井副隊長だけのようです」
「…恋次は敗れたか…」
その静かな声が、全てを物語っているような気がした。
一人旅禍に挑んだその意気やよし。
しかし、結果だけを見れば彼が敗れたという事実は変わらないのだ。
刀を持ち、戦いに挑む者にとっては、結果がすべて。
どんな志を持って挑んでいたとしても、敗れれば全てが無に還る。
況してや、阿散井は命令なしに無断で動き、戦いを挑んだ結果、重傷を負って帰った。
「…隊長」
窓のを外に視線を向けたままの白哉の背中に、そっと声をかける。
その声には様々な思いが含まれていた。
「行くぞ」
彼はただ一言だけを返し、隊長羽織を翻して歩き出す。
その背中を見て、彼女が何かを告げようとした唇は力なく閉じられ、瞼が切なげに伏せられた。
阿散井を牢に入れておけと言う白哉の言葉に、雛森が反論の声をあげた。
過ぎるほどに冷静だった彼の言葉は、彼女の耳には冷酷に聞こえたのだろう。
副隊長と言う身でありながら、他の隊の隊長に逆らったとなれば、事は大きくなる。
況してや、彼は四大貴族の当主だ。
彼の返事を聞いて尚声を上げようとした彼女は、傍にいた吉良によって止められた。
「お言葉ですが、隊長。緊急事態である今、阿散井副隊長を欠いては隊の動きに支障を来す恐れがあります」
「緊急時であるからこそ、命令を聞かぬ者を野放しにはできぬ。恋次の穴はお前に動いてもらう」
淡々と告げられた言葉に、紅は目を見開いた。
そして、緩く頭を振ってそれを否定する。
「私には副隊長の穴はとても…」
紅は副隊長ではないのだ。
副隊長を欠いたその穴を埋める役割を果たせるはずもない。
しかし、白哉は彼女の申し出を眼差し一つで撥ねつけた。
彼の中で阿散井の拘束は、もはや決定事項だったのだろう。
紅はそのまま口を噤んだ。
雛森の縋るような視線には気付いていたけれど、自分にはこれ以上何も言えない。
そっと瞼を伏せたことが、彼女への答えになっただろう。
白哉が去り、入れ替わるようにして市丸が声を上げた。
雛森を擁護し、白哉の言い方を咎めるようなことを言いながらも、その表情には笑みが浮かんでいる。
相変わらず、心中の読めない人だ―――そんな事を考えていた紅。
ふと、雛森との話を終えた彼が、彼女を振り向く。
「紅ちゃんこれから大変やね。阿散井君の代わりせなあかんし」
「…そうですね」
「あないな堅物のどこがええんか、僕にはわからんわ」
そう言う彼に、紅は無言を返した。
無駄話をする気はないと言う姿勢の彼女に毒気を抜かれたのか、彼は肩を竦めてから吉良を呼ぶ。
「付いておいで、イヅル」
吉良は、はい、と声を上げ、四番隊に声をかけに行くであろう市丸の後に続く。
「…ごめんなさい」
雛森と擦れ違う瞬間にそう呟き、紅もまたそこを離れた。
日が暮れ、紅は屋敷へと戻ることなく、隊舎内にある自室で身体を休めていた。
帯刀許可が出ているため、彼女の傍には斬魄刀がある。
「…焔霞」
小さくその名を紡げば、柄先が陽炎のようにふわりと揺らめく。
やがて、そこから地獄蝶ではない蝶が姿を現した。
まるで炎のように揺らめく赤い翅を持つ蝶。
窓辺で月を見上げる紅の周囲を漂っていたそれが、不意にひらりと襖の方に飛んでいく。
目線だけでそれを追った彼女は、蝶がそこへと移動した理由を知った。
「…白哉様」
この緊急事態、彼もまた、屋敷には戻っていなかったらしい。
紅を一瞥した彼は、すっと持ち上げた指先に蝶を止まらせる。
「市丸が四番隊に声をかけたそうだな」
「ええ。本日の処置は既に終わっています。発熱は見られますが、命に別状はありません」
「…そうか」
彼はそれ以上何も言わず、紅がいる窓辺に近づいてきた。
その膝元に置かれているものに気付くと、軽く目を見開く。
何十年と彼を見てきた紅だからこそわかる程度の小さな変化だ。
「白哉様もよろしければどうぞ」
彼が来るのかはわからなかったけれど、ごく自然に用意して伏せていた杯を彼の方へと滑らせる。
「…珍しいな」
「…少し、月を飲みたい気分でしたから」
そう呟く彼女の手の中には、確かに酒で満たされた杯がある。
彼女の目には、その水面に月が浮かんでいるのだろう。
しかし、それを飲む素振りは見られなかった。
白哉は彼女の行動の真意を問うような事はしない。
何も言わずに彼女の前に腰を下ろし、受け取った杯に満たされた酒で喉を潤す。
「…焔霞を見るのは久しぶりだな」
「そうですね。このところ、斬魄刀を解放する機会など、ありませんでしたから」
「何か思うところでもあるのか」
「………焔霞に、呼ばれただけです」
白哉の元を離れ、紅の手の甲で羽を休める赤い蝶。
彼女の斬魄刀の化身である蝶は、彼女に何を告げるでもなく、ゆらりゆらりと翅を広げては畳んでいる。
何事もない明日が来ることを望みながらも、それが叶わないことを知っていたのかもしれない。
舞い込んだ風に、水面の月が揺らいだ。
焔霞(ほむらがすみ)
09.06.20