縁側で静かに本を読む白哉の背中が見える。
時折それを見つめながら、膝の上に置いた布を着物へと仕立て上げるべく、一針ずつ進めていく。
とても静かで穏やかな時間だった。
ぺら、と紙を捲る音を聞き、紅はそっと瞼を伏せる。
そして、白哉と出会った時の事を思い出した。
睡蓮
「紅、この方が朽木家次期当主となられる白哉殿だ」
厳格な父が、この時ばかりは人当たりの良い表情を浮かべていた。
あぁ、この縁談を壊すわけにはいかないのか。
そう悟ったのは、日頃から「雪耶の為に在れ」と言われてきたからだろう。
初めまして、紅と申します。
雰囲気に飲まれ、そう言うのがやっとだった自分を、父は白哉と共に部屋に残してしまった。
いずれはこうなる日が来るのだと言う事はわかっていた。
けれど、いざ来てしまったこの日に、紅は自分がどうすれば良いのかを理解できていない。
初めて出会った人と、たった二人で残されることに感じたのは、不安だけだった。
「―――そう硬くなることはない」
どれくらいの時間が流れただろう。
向かいに腰をおろしていた白哉がそう呟いた。
パッと顔をあげ、そこで初めて、真剣に彼の顔を見る。
美しい人だった。
「私が紅殿と話をさせて欲しいと頼んだ」
「…は、い」
硬くなるなと言われても、無理な話だ。
この人の気分を害してしまったら、私はどうなるのだろうか。
そう考えただけで、何一つ余計な事は言えなくなってしまうのだから。
「……ここの庭は美しく整えられている」
不意に、白哉は紅から視線を外し、屋敷の傍に佇む庭を見つめる。
誘われるように庭へと目を向ける紅。
そこには、紅が好んで整えてもらっている木々が優しく風に踊っていた。
「…植物だけは、いつでも優しく迎えてくれますから…」
気がつけば、そう呟いていた。
悲しいことや辛いことがあると、いつも庭に飛び出していた。
その度に父に諌められていたけれど、紅にとってはそれだけが自分と言う人間を支える命綱だったのだ。
この庭がなければ、もっと早くに限界が来ていたことだろう。
「我が邸では、今の季節は椿が美しい」
「椿…六番隊の隊花ですね」
「詳しいのか?」
「…父には反対されていますけれど、私は死神として生きたいと思っています。
来月から、護廷十三隊の五番隊に入廷します」
ずっと父に従ってきた紅が口にした、最初で最後の願い。
死神を「女子には必要ないもの」と譲らなかった彼は、紅の真剣さに折れた。
説得には随分と時間をかけてしまったけれど、五番隊の隊長は、気長に紅の返事を待ってくれていた。
苦労の末、彼女は父からの許可を得て、来月念願の入廷を果たす。
「白哉様は…」
聞きたいことがあった。
しかし、庭からこちらを向いた白哉の視線に、紅の言葉が消えてしまう。
「…申し訳ありません。何も…」
そう言って口を噤んでしまう彼女。
きゅっと唇を結び、俯く彼女を見て、白哉はゆっくりと口を開いた。
「死神には危険が付きまとう。己を守り、矜持を守る事が出来る者ならば、歓迎されるだろう」
「――――」
「私は、女子であろうとも、力のある者ならば刀を持つ事を止めはしない」
静かに、流れるように紡がれる言葉。
それは、紅の未来を否定するものではなかった。
彼が隊長であったとしても、貴族の娘が十三隊に入る事を良くは思わないだろうと考えていた。
彼が否と言えば、父は圧力をかけてでも入廷を流してしまったはずだ。
だからこそ、この時期に白哉を屋敷に招き、自分に引き合わせたのだ。
彼がここに来た時点で、入廷が叶わなくなるかもしれないと思っていた紅。
不安が杞憂に終わり、安堵から感情が零れた。
「ありがとう、ございます…っ」
口元を覆い、顔を俯かせる。
そこから続く長い静寂を、苦痛には感じなかった。
あれから何十年もの時が流れ、五番隊だった自分は、白哉の率いる六番隊へと異動した。
一度は破棄された婚約だが、今はこうして彼の元へと嫁いでいる。
世の中は、どう転ぶかわからないものだな、と思う。
視線を白哉の方へと向けた所で、紅は驚いたように目を見開いた。
そこに、壁に背を預けるようにしてまどろむ白哉の姿があったのだ。
本当に珍しい光景に、言葉どころか息をするのも忘れてしまう紅。
呼吸一つで起こしてしまうかもしれないと思うと、中々動き出そうと言う気になれない。
しかし、このまま放っておくのは問題外だ。
すでに出来上がって隣へと畳んでいた着物を手に、音もなく立ち上がる。
死神として死覇装を纏っている時ですら、こんなに緊張して気配を消したことはないだろう。
そう思えるほどに慎重に足を進め、息を殺して彼に近づいていく。
すぐ傍らに膝をつくと、ふわり、と真新しいそれを彼にかける。
伏せられた瞼が、いつもの冷静な目を隠してしまっていた。
「――――」
紅の唇が微かに震える。
目を見て伝えることのできない想いが唇から滑り落ちた。
自分に向けられているものが、貴族としての義務的な感情だとしても。
同じものを与えられないとしても、紅にはそれが全てだった。
あの日、彼によって広げられた紅の世界は、その存在を無視できなくなっている。
彼の為を思えば婚約を破棄されても納得できた。
彼の為を思えば、貴族の勝手な考えで嫁がされる事にも、事務的に答えられた。
紙切れ一枚のものであったとしても、彼と繋がるものが欲しかったのだ。
それが得られるのならば…切ないほどの想いなど、いくらでも隠す事が出来る。
緋真との約束から、ルキアを探し出して養子へと迎え入れた時も、紅は何も言わなかった。
ただ、口を閉ざして笑みを浮かべ、彼の力になるべく陰ながら手伝うだけ。
緋真に似すぎているルキアを見ている白哉の眼差しを見つめるのが辛い日もあった。
今となっては、紅にとってもルキアは大切な妹となり、そんな悲しい感情を抱くことはない。
紅は、彼の一番になることなど望んではいないのだ。
この時間さえ続くならば、それ以上の事は望まない。
暫く白哉を見つめていた紅は、やがて無言で立ちあがった。
裁縫の道具を片付け、途中まで出来ているそれと一緒に持ち上げて部屋を出ていく。
襖を閉ざすその瞬間に背中に感じた視線を、気の所為だと言い聞かせた。
08.11.03