行って来ます、と頭を下げた妹。
紅は彼女を引き止めることはせず、その実力が評価されていることを己のことのように喜んだ。
気をつけてね。
そう声をかけ、地獄蝶を伴って現世へと向かうルキアの背中を見送った。
あれから一週間。
帰っているはずのルキアは、未だにこの屋敷には…それどころか、尸魂界に戻らない。
睡蓮
夜も更けた頃、紅は詰め所にて仕事を片付けていた。
残業というわけではない、
キチンと仕事を終わらせているが、この所、紅は遅くまで詰め所に残るようになっていた。
「―――紅」
突然背後から声が聞こえた。
気配も何も無く、本当に唐突に現れたその人に、紅は焦るわけでもなく振り向く。
「隊長…遅くまでお疲れ様です」
書類を手から離し、深く丁寧に腰を折る。
この詰め所内に居る時は、彼は白哉ではなく、六番隊隊長。
六番隊の四席に属する紅にとって、敬すべき上司だ。
「また遅くまで残っているのか」
「…その言葉は、隊長にそのままお返ししなければなりません」
遅くまで、という時間にこの場に居るのだから、彼も同じなのだ。
紅の言葉に彼はふと目を逸らす。
誰も居ない詰め所の中はしん、としていて、二人の声以外に音は無い。
「………まだ、所在がわかりませんか?」
沈黙を破るように、紅はそう問いかけた。
彼が何故遅くまで瀞霊廷に残っているのかを知っている。
紅の言葉に、彼は詰め所内に向けていた視線を彼女へと戻した。
「…状況に変化はない」
そう答える白哉の表情は、どこか疲れている。
紅は今の彼をルキアに見せてあげたいと思った。
常に養子であることに負い目を感じていた彼女に、この彼を見せてあげたい。
この人が、前妻に似ているというだけで、流魂街の出身のルキアを養子に迎えるはずがないのだ。
わかりにくい愛情は、しかし確かにそこに存在しているもの。
「隊長、この書類に隊長印をお願いします」
紅はそう言って、唐突にその書類を差し出した。
彼は無言でそれを受け取り、内容に目を通す。
「本日付で、承認されました」
それは、現世へ赴く許可を求める書類。
意味もなく現世に介入することは、尸魂界では禁じられている。
しかし、任務として赴けば、彼女を探す時間はない。
紅は現在の状況を添え、総隊長に許可を求めていた。
それが、今日になってようやく承認されたのだ。
白哉はその書類を見下ろし、他人にはわからない程度に表情を顰めた。
「隊長…?」
「お前が現世に向かったところで、状況は変わらぬ」
「………そうかもしれません。しかし、何もせずには―――」
そこで、紅は口を噤んだ。
向けられた視線の鋭さに、否応なしに言葉を飲み込んでしまったのだ。
「何も、変わらぬ」
「…ルキアは…!あの子は私の大切な妹です!これ以上あの子を放っておけない…」
どこかで怪我を負い、弱っているのかもしれない。
最悪の場合、彼女はすでに虚によって…そう思うと、居ても立っても居られないのだ。
自分に向かって声を荒らげる彼女に、白哉は軽く目を見開く。
彼女がこうして自分に従わないのは、初めての事ではないだろうか。
元々、生れ落ちた瞬間から彼女の未来は決められていた。
いずれ来る時のためにと、厳しく育てられたことも知っている。
四大貴族である朽木家に嫁ぐに相応しいようにと、彼女はそう育てられた。
一度は白哉の都合で婚約を解消し、貴族の勝手な都合で朽木家に嫁いできた娘。
それを恨むこともなく、彼女は常に白哉の思考を読み、一歩後ろに従うような、妻の鑑だった。
このように感情を露にしている姿を見るのは、初めてだった。
白哉は何も言わず、無言で隊長室へと消えた。
それを見送った紅は、己の行動の浅はかさに心中で頭を抱える。
つい感情的に声を上げてしまった―――朽木家には劣るものの、貴族の出身としてはあるまじき事だ。
「なんて…ことを…」
ルキアの消息がつかめないということが、紅を焦らせている。
白哉にあたったところでどうなるものでもないのに。
自己嫌悪に陥り始めて数秒後、白哉が姿を見せた。
パッと顔を上げた紅は、謝罪の言葉を口にしようとする。
しかし、それよりも早く、目の前に差し出されたそれに、彼女の言葉は声にならずに飛散した。
「……許して、くださるのですか…?」
「三日だ」
「ありがとうございます…!」
隊長印の捺されたそれを胸に抱きしめ、紅はそう言った。
この様子ならば、夜が明ければすぐにでも現世に向かうのだろう。
予想に違わず、自分の机を片付け始める彼女の行動を見つめる白哉。
「……紅」
不意に、名前を呼ばれた紅は、手を止めて彼を振り向いた。
自分のことで頭がいっぱいで、彼の視線に気付いていなかったらしい。
「何を目にしようと、深追いは許さぬ」
ミイラ取りがミイラになるな、と言う事なのだろう。
白哉からの隊長としての言葉に、紅は姿勢をただし、はい、と頷く。
「必ず戻れ」
そう言うと、彼はそのまま出口の方へと歩き出した。
詰め所を出る直前に、早くしろ、という声が紅の耳に届く。
金縛りにあっているように動けなかった紅は、その声によりハッと我に返った。
「すぐに参りますっ」
慌ててそう返事を返し、灯りの始末をしてから急いで彼に続く。
翌朝、紅は単身で現世へと向かう。
己の斬魄刀と、一枚のそれを懐に携えて。
一人、ひっそりと尸魂界を離れていくその背中を見送る者が居たことを、彼女は知らない。
08.07.06