たとえ…別の誰かを見ているのだとしても。
私は、あなたの隣に居られることが幸せだと…そう、思っていました。
それが、胡蝶の夢だと知りながら。
睡蓮
「紅様」
控えめな声が、自分の名前を呼ぶ。
声の主はまだ年端も行かぬ容姿をした、妹だ。
彼女が自分の妹になったのは、およそひと月前。
「ルキア、そう呼ばないでと言っているでしょう?」
落ち着いた口調でそう咎められ、ルキアは「うっ」と言葉を詰まらせる。
それから、どこか照れたようにはにかみ、続けた。
「では…紅姉様」
呼び方をそう改めれば、紅は柔らかく微笑む。
太陽のような満面の笑みではなく、陽だまりのようなほんのりとしたあたたかさを感じさせる微笑みだ。
「紅姉様。庭の睡蓮が花をつけました。一緒に見に行きましょう」
そう言って、ルキアが紅を誘う。
この、静かでどこか寂しい家の中では、紅だけが彼女の支えなのだろう。
養女として迎えられた彼女の肩身は狭い。
いつだって、自分が流魂街の出身である事に後ろめたさを感じている。
そして貴族独特の排他的な家の中で、紅だけはルキアに対してあたたかく接した。
彼女にとって、それがどれほどの救いだったか―――
ルキアは、その時の思いを忘れることなく、一身に紅を慕っている。
「急ぐ必要はないわ、ルキア。睡蓮も、一時間くらいで隠れてしまったりはしないでしょう」
腕を引いていこうとする彼女に、紅はクスクスと小さく笑う。
それでも、引っ張ろうとする彼女に抵抗と言う素振りは見せず、歩を進める。
「睡蓮は逃げませんけれど、時間は逃げてしまいますよ、姉様」
速度を緩めるつもりはないらしい。
こんなところを見られたら咎められるのでは、と思いつつ、紅はルキアにそれを伝えようとはしなかった。
そんな無粋な忠告をして、彼女の気分を落ち込ませたくはない。
「今年の睡蓮は特に素晴らしく咲きました。紅姉様もきっと気に入ります」
「そう…去年はあまり咲いてくれなかったから、もう駄目なのかと思っていたけれど…楽しみね」
「はい!」
そうしている間に、庭へと到着した。
ルキアの言うとおり、見事なほどに美しく咲く睡蓮。
それらを見つめていた紅は、そっと目を細める。
「私がこの家に来た時の睡蓮だから…死んでしまわなくて良かった」
池のすぐ脇にかがみこみ、袖を押さえて水の中に手を差し込む。
ひんやりとした冷たさが手を覆った。
「…紅姉様は、自由になりたいとは思わないのですか?」
不意に、ルキアが真剣な表情でそう言った。
紅は彼女の質問にやや驚いたように目を見開く。
「…私は自由よ、ルキア。この家に閉じ込められているわけでもなく、死神として生きている」
「しかし…!兄様は、妻であるあなたに事務的な態度ばかり。そんな…」
「………私が白哉様の後妻として迎えられたのは、前妻である緋真様が早くにお亡くなりになったから。
元々両家の間で結婚の約束が交わされていて、貴族として家のために迎えてくださっただけのこと。
緋真様を愛していた白哉様に、彼女と同じように私を愛して欲しいとは思わないわ」
それは、高望みになってしまう。
紅は目を伏せ、そう言った。
ルキアはそんな彼女の表情に、悲しそうな表情を見せる。
白哉が前妻を愛していたとことは知っている。
しかし、それは妻に迎えた紅をほうっておく理由にはならないはずだ。
たとえ自身が望んだことではなかったとしても、貴族としてそれが有益と判断して、彼女を妻に迎えた。
それを決めたのはほかならぬ白哉自身なのだ。
彼には、紅を大切にする義務があると思っている。
「いいのよ、ルキア。これが、一貴族に生まれた私の役目だから」
いつでも紅はそう言って微笑んでいる。
悲しいに決まっているのだ。
彼女は…自分をこんな風に扱う白哉を慕っているのだから。
「紅姉様…。私は―――」
「紅」
ルキアの声を遮るように、男性の声が響いた。
紅はその声に反応して、水の中から手を抜く。
そしてスッと立ち上がって姿勢をただし、声の主を振り向いた。
「白哉様、お帰りでしたか。お迎えもせず、申し訳ありません」
「いや、構わぬ。すぐに戻ることになる」
「何か忘れ物でもありましたか?」
「―――今夜は部下の指導で帰りが遅くなる」
僅かな沈黙の後、白哉はそう言った。
淡白な言葉を受けるも、それを気にした様子なく、紅は笑みを浮かべる。
「では、私はルキアと夕食をいただきます」
「ああ」
そう言うと、白哉はそのまま踵を返してしまう。
そんな彼に、ルキアが慌てたように「兄様」と背中を呼び止めた。
「ルキア。白哉様はまだお仕事が残っているのだから、迷惑をかけては駄目よ」
彼女が何を言おうとしているのかを悟り、紅は彼女の背後から口を覆ってしまう。
血の繋がらない姉妹の行動を一瞥し、白哉は何も言わずに止めた足を動かした。
行ってらっしゃいませ、とその背中を見送る。
足早に去って行く彼の背中は、すぐに見えなくなった。
「紅姉様!何故お止めになるのですか!」
「ルキア。私は変化を望んでいないわ。あの方の傍に居られるだけで、幸せなことだから。
たとえこの関係が形だけの紙面上のものだったとしても。それ以上は望まないの」
「…姉様は、もっと他の男性と一緒になるべきです。私は、姉様の辛そうな表情は見たくない…」
ぐっと唇をかみ締めてそう告げるルキア。
紅は、そんな彼女の様子に心を痛めた。
「ルキアは…白哉様が嫌い?」
「…いいえ。養子として迎え入れてくれたこと、生活をさせていただいていること…とても、感謝しています。
けれど、姉様への兄様の対応を見ていると、どうしていいのかわからなくなってしまう…」
顔を俯かせるルキアを見ていた紅は、すっと視線を動かす。
池の中に咲き誇る沢山の睡蓮を見つめ、口を開いた。
「この家にやってきて、池が寂しいですねと呟いたの。立派なお庭を前にして、失礼なことを言ったと思うわ。
けれど…翌週に池に睡蓮を植えるよう命じてくれたのは、白哉様だったの」
「兄様が、この睡蓮を?」
「私はあの白哉様の優しさに救われた。この家で、あの方に尽くそうと思った」
愛してくれないことはわかっている。
その全てが故人に向けられているとしても、白哉のために生きようと思った。
もちろん、慕っている相手の背中ばかりを見ているのは、辛いこともある。
そこをルキアに見られ、心配させてしまったのは自分の失態だ。
「―――雨が降ってきたわね」
ふと頬に冷たい雫が落ち、空を仰ぐ。
そして、ルキアの手を引いて歩き出した。
「雨の所為で、あまり気温が上がらないわね。今日は温かいものにしてもらいましょうか」
そんな風に、何事もなかったように話しかけてくれる紅に、はい、と返すのがやっとだった。
ルキアは優しく手を引かれながら、庭先の睡蓮を振り向く。
花の上に落ちた雫がつぅっとそこを伝う。
泣かない紅の代わりに、睡蓮が涙を流しているようだった。
08.06.11