逃げ水

何となく、気付いていた。
時々、彼は酷く冷めた目で惣右介さんの背中を見ていたから。
目を瞑って見なかったことにしていたのは、それはあり得ないのだと…信じたかったのかもしれない。
結局のところ…惣右介さんには、真に信じられる人など…いなかった。
…きっと、私も。







その時が来たのだと、市丸の目を見て気付く。
見てから反応したのでは遅い―――紅は、半ば本能的に地面を蹴った。
彼の神鎗は紅の身体一枚で止めることなどできない。
それを理解した上で、市丸と藍染の間に身体を滑らせた。
刹那の間に二人を貫いた神鎗。
紅の存在に気付き、市丸はどこか哀しげに目を細めた。

「―――鏡花水月の能力から逃れる唯一の方法は、完全催眠の発動前から刀に触れておくこと―――」

市丸はそう言ってから、紅の後ろにいる藍染を見た。

「その一言を聞き出すのに、何十年かかった事やら…」

呟いた市丸が、改めて紅を見つめた。

「君なら聞き出すくらい簡単やて思うてたんやけど…意外やったわ。ただの一度も、口を割らへんかった」

君は知ってたんやろ?市丸の言葉に、紅は何も反応しない。
そう、知っていた。
鏡花水月の、唯一の弱点。
聞かされたそれを、紅は一度たりとも口にはしなかった。
どんなに緩んだ会話の中でも、冗談交じりの言葉の中でも―――彼女は、その一言を封じ続けた。

「何で、それほどまでに想う人が…藍染隊長やったんやろね」

市丸の声が遠い。
何かを言って、彼の刀が消えて。
栓を失った傷口から、血が溢れ出す。
傷は肺の位置だったのか、呼吸が上手くいかなかった。
どくん、どくん、と鼓動に合わせ、新たな鮮血が零れ落ちる。
まるで、自分の命が逃げているようだと思った。

―――意識が、掠れる。














「私が何故、紅を傍に置いていたか―――その答えを教えようか」

自らの刀で斬り、貫いた市丸を見下ろす。
一瞬、藍染の姿が消えた。
そして、次に彼がその姿を現した時、彼の腕には意識のない紅が抱かれていた。

「たとえ崩玉が私のものになっていなくとも、私が死ぬことはない―――崩玉が、紅の望みを叶えるからだ」

藍染は腕に抱いた紅の頬を撫でた。

「彼女だけが、真に私の“生”を望む。そして、自らが使えずとも、それを成し得るだけの力を持っている」

市丸が、ほんの少しだけ目を見開いた。
彼の脳裏に、過去の彼女との会話が甦る。

―――姫さんは…何が望みなん?
―――…ただ、傍にいたいだけ。


あの言葉に、偽りなどなかったと言う事か。
藍染に手を出す前に、彼女をどうにかすべきだった。
そんな市丸の考えを読んだのか、藍染が小さく笑う。

「残念だが、彼女を殺す事も不可能だ。私が、彼女の“生”を望んでいるからね」

藍染の手の平が、紅の傷口を撫でる。
胸元の傷が消え、大量の血の跡だけがそこに残った。

藍染の命が危険に晒されれば紅の望みが叶えられ、紅の命に危険が迫れば藍染の望みが叶えられる。
それはまるで、崩玉を中心とした輪廻のようだ。
崩玉の存在がある限り、二人を屠る事など、誰にもできない。

「ただの死神では生死を左右するほどの力は持っていない。だからこそ私には、紅でなければならなかった」

誰かが、自分が生きる事を望めばいいわけではなかった。
他ならぬ彼女が、それを望まなければならなかったのだ。

そして、彼女はそれを望んだ。









紅が薄く目を開く。
すぐ傍に、藍染が見えた。
彼は紅に気付いて小さく笑みを浮かべ、彼女を地面へとおろす。

「無茶をしたね。君が飛び込まずとも、私には何の影響もないと言うのに…」
「…ごめんなさい」
「謝る必要はないさ。そこでゆっくり見ているといい」

すぐに終わるよ、と肩を抱き寄せられ、目元に口付けられる。
離された紅が市丸の姿を映し、哀しげに表情を歪めた。
藍染が何をしようとしているのかに気付き、咄嗟に彼の腕を取る。
驚くわけでもなく振り向く彼に、紅は自分が紡ぐべき言葉を探した。

「―――もう…」

唇が震え、声が掠れる。
今まで常に傍観者であった自分が、今更何を言えると言うのか。

けれど―――

「………やめて…」

傍にいたくて、ただそれだけで―――それ以外の全てから、目を閉じ、耳を塞いできた。
彼の目指すものが、世界の崩壊へと繋がるのだとしても。
紅が世界以上に望むものが、彼だったから。
何にも感情を動かさない冷徹な自分が素の自分なのだと言い聞かせ、思い込んでここまで来た。
けれどもう、限界だ。
止めるには遅すぎると知りながら、その言葉を口にする。
口にすれば、紅が何よりも望む事…彼の傍にいる事を、失うかもしれない。

「今更…この世界が惜しいと?」
「―――っ」
「本来の自分を殻の中に封じねば生きられぬこの世界を、望むと言うのか?」

藍染の表情に怒りはない。
ただ冷静に、彼は問いかける。

「迷う事はない。私と進む未来は、君にとって自由な世界だ」
「私は…自由なんて要らないの!!ただ、あなたがいて、あなたと一緒なら…!」
「紅」

名を呼ばれ、紅の肩が震える。
頬を拭われて漸く、自分が涙を流している事に気付いた。

「君は優しすぎる」
「惣右介、…」
「君の一番の望みは私が叶えよう。君がそれを見守る必要はない」
「…!待っ―――」

何かに気付いた紅が咄嗟に静止の声を上げる。
しかし、時既に遅し。
藍染の手が優しく、紅の瞼を撫でた。

「おやすみ、紅。次に目覚めた時には、全てが終わっている筈だ」

あの時と同じ言葉。
駄目だと思いながらも、意識が曖昧になり、自分の意思とは無関係に闇へと沈む。
一番伝えたい事も、言えなかった。
沈みゆく意識の中、その後悔だけが紅の中に深く刻まれていった。

10.12.12