逃げ水

虚夜宮の中から、破面の霊圧が消えていく。
玉座と呼ぶにふさわしいそこに腰掛ける藍染の傍らで、紅はそれを感じていた。
またひとつ、十刃が消えた。

「――――――」

紅は瞼を伏せ、消えた霊圧の欠片を追う。
それが無駄なことであることを理解しながら。

「紅」
「…はい」
「準備を」

藍染の言葉に彼女は薄く瞼を開いた。
そして手の平を上に向けて、目の前の空間に四本の黒腔を映し出す。
死神が虚圏に侵入する際に繋いだそれは、既に紅の霊圧により彼女の思うままだ。
閉じるも開くも、彼女次第。

「そろそろか―――」

藍染は薄く微笑むと、玉座から腰を上げた。
その時、階段下の空気が揺れ、織姫を連れたスタークが姿を現す。
突然のことに織姫は状況を把握できていないようだ。
彼女からすれば、一瞬のうちに場所が変わったように感じただろう。

「お帰り、織姫」

藍染の声は彼女に絶望しか与えない。
恐怖に目を見開いた彼女を見下ろし、紅はその顔から表情を消した。


パチン、と指先を鳴らす。
それに呼応するように、黒腔がその口を塞いだ。
しっかりと閉ざされた四本のそれを見つめた紅は、握り潰すようにして映像を消す。
そして、こちらを見つめる藍染に視線を返し、小さく頷いた。
それを見た彼はゆっくりと歩き出し、褒めるように紅の頬を撫で、その前を通り過ぎる。
躊躇いもなく空座町へと繋いだ黒腔へ足を踏み入れる藍染。
やがて彼の身体が黒腔を抜け、空座町へと降り立つ。















炎に周囲を包まれる直前、紅は周囲に結界を張る。
四人は互いが邪魔をしない程度の距離を取っているが、それを余裕で囲う大きさの結界だ。
しかし、炎自体が自分たちを襲う事を目的としていないと悟ると、彼女は手で空を切って結界を解く。
相手が総隊長と言う事もあり、念を入れて三重に張った結界を一重に留める。
炎の熱気はその結界に阻まれ、四人の元まで届く事はなかった。

「どうするの?」

紅が藍染を見つめてそう問いかける。
自分の斜め後ろに控える彼女を見て、藍染は小さく笑みを浮かべた。

「何も必要ないよ。君はただ、そこにいればいい。彼らの仕事だ」

彼の返事に頷くと、紅は炎の向こうの景色を目の前に映し出す。
四角く切り取られた小さな世界の中で、かつての同志が刀を抜いていた。

「十一番隊は五席まで来とるやん。姫さん、懐かしいんちゃう?」

紅の後ろからそれを覗きこんだ市丸が楽しげに笑う。
彼女がそれを楽しめる筈がないと知りながら、酷な問いかけを投げる彼。
しかし、紅はそれに対して心を痛めるような素振りを見せなかった。

「誰が来ようと関係ないわ」
「へぇ…姫さんも変わったわ」
「ギン」

ほんの少し驚きを含めた市丸。
彼の言動を咎めるように、藍染が短くその名を呼んだ。

「構わないわ。私が…弱かっただけの話」

藍染の元を選びながら、尸魂界の微温湯を忘れられなかった。
苦しかったはずなのに、楽しかった思い出ばかりが脳裏を過ぎる。
もしかすると、自分は間違っていたのかもしれないと…その考えに至ったことすらあった。
悩み、戸惑い、考え―――最後に残ったのは、彼の傍を離れられないと言う、ずっと抱き続けた彼への想いだけ。

「考えるのはやめたの」

刀に手を添えて、そっと目を閉じる。
紅の言葉を背中で聞いていた藍染は、誰にも見えない位置で小さく笑みを深めた。


藍染は、役目を与えている東仙や市丸とは違い、紅には多くの事を望まなかった。

彼の傍に帰る事。

それだけを役目として、彼女には自由を与えていたのだ。
自由を与えた結果、彼女が自分の傍を離れるとは思っていなかった。
その可能性はないと確信している。
自分の考えが間違っていなかった事、彼女が自分の意思を正しく理解していた事。
藍染の心は、彼女の選んだ答えに満足していた。

「紅」

笑みを絶やすことなく、藍染が彼女を呼ぶ。
彼女が顔を上げるのを気配で感じ取った。

「刀を抜くも抜かぬも、君の自由だ」
「…ええ」
「敗北は赦そう。だが―――わかっているね?」

死ぬ事だけは赦さない。

言葉にされなかった、彼が求める唯一。
紅はそれを理解し、頷いた。













破面の従属官が次々に護廷十三隊によって倒れていく。
残るのは十刃の三人と、スタークの従属官のみ。
護廷十三隊も決して無傷とは言えない状況だが、数としてはこちらが不利に見える。
尤も、それは炎に包まれている四人を含めずに考えた場合だが。

「…そろそろワンダーワイスを呼ぼうか」

静かにそう言った藍染に、紅は東仙と目を合わせた。
何を言うでもなく両者が頷き、今回は彼女がその役目を追う。

「おいで、ワンダーワイス」

囁くようにそう言うと、間を置かずに空が割れた。
意味を理解できない言葉を発するワンダーワイス。
紅は母性すら感じさせる穏やかな笑顔を浮かべ、唇を開く。

「遊んでおいで?」

距離的には、この小さな声が彼の耳に届くはずはない。
けれど、彼はその声を確かに聞いていた。
口元に笑みを浮かべ、空を蹴る彼。
その腕が死神の身体を貫き、高い叫びが破面を解放する。
ワンダーワイスが連れて来たフーラーの息により、四人を包んでいた炎が消えた。
その向こうに彼らの存在を視認し、手の平に浮かんでいた小さな世界を握り潰す。

10.02.12