逃げ水
ガンッと言う何かがぶつかるような鈍い音が聞こえた。
紅はふと顔を上げ、その音が聞こえてきた方向を見つめる。
この先には、確か織姫の居る部屋があったはずだ。
音はそこからだろうか。
迷いもなく、足はそちらへと動いた。
本当は足を動かすまでもない。
紅には、そこに誰が居るのか位は、呼吸をするのと同じくらいに容易く感知できる。
織姫の霊圧の他に、二つ。
彼女からすれば全く強くはないその霊圧は、何度か自分に殺気を向けてきた破面のものだ。
それを考えれば、部屋の中がどうなっているのかなど、想像するまでもない。
足早に廊下を進む紅の表情は冷め切っていた。
極限まで落とされた彼女の霊圧を察知できる者は、ここでは藍染くらいのものだ。
そうして、気づかれることなく部屋の扉へと触れる。
躊躇いなくそれを押し開ければ、突然の訪問者に驚き、室内の空気が凍った。
「……何をしているの?」
「紅…様…」
「その手を放しなさい。誰がその娘を連れてくるように命じたのか…知らないわけではないでしょう」
強い視線を向けてそう言えば、ツインテールの女性破面は握り締めていた織姫の手を放した。
その目は鋭く紅を睨みつけている。
「織姫。怪我は?」
「紅さん…」
「あなたはあの人の為にあるの。許可なく怪我をすることも、命を落とすことも…許されないのよ」
その言葉に織姫の表情に影が落ちた。
彼女には、この言葉は辛く苦しいものだろう。
仲間の命を救う為に、彼女はここにいる。
そこに彼女自身の意思はなく、選ぶことの出来なかった道。
分かっていたけれど、紅はあえてその言葉を口にした。
破面の彼女らに、織姫が藍染の所有物であるという認識を刻み付けるために。
「侵入者の始末はどうしたの?」
織姫と話した後、紅は二人を振り向いて問いかける。
彼女らはギリッと唇を噛んだ。
「何も…命令は受けていません…」
「…そう」
紅は小さく頷いた。
そして、二人から視線を外しつつ続ける。
「何も期待されていないということね」
「―――――っ」
息を呑み、頬をカァッと赤く染めて拳を握る。
憤りのままに紅に掴みかかろうとする一人を、もう一人が止めた。
二人の名前は…知らない。
「とにかく…」
そこで、彼女の言葉が不自然に途切れる。
彼女は空を仰ぐように視線を動かし、ふぅ、と息を吐き出した。
「あなた達に構っている暇はなくなったわ」
「何を…」
「あの人が呼んでいるから」
そう言うと、紅はくるりと踵を返す。
彼女が従うのはただ一人。
その人が、彼女を呼んでいる。
そんな事実に、掴みかかろうと拳を握った彼女が嫉妬の炎に感情を焼いた。
―――この女が居る限り、自分たち藍染様に求められることはない。
苦しいほどの憎悪が感情を支配する。
「ちょ…落ち着きなよ。あの人に怪我でもさせたら、私たちが殺される」
掌が血を流すほどに強く拳を握る彼女に気づき、もう一人が声を潜めてそう言った。
紅に手を出せば、藍染はその者を許さないだろう。
それほどに、彼女は彼に愛されている。
無条件に隣にあることを許されている死神。
何の苦労もなく、それなのに自分よりも遥かに強い死神。
そんな彼女が、ぐちゃぐちゃに壊したいくらいに憎かった。
振り向くこともなく紅が去った室内。
ドロドロとした黒い空気がそこを支配していることに気づき、織姫はその背中に冷たい汗を流した。
瞬歩で移動すれば、さほど時間を要することはない。
藍染の待つそこへとやってきた紅は、その扉を押し開けた。
「直接霊脈を繋いで呼びかけるなんて…珍しいわね」
そう言って部屋の中へと入ってくる彼女。
藍染は座ったままの姿勢で首だけを振り向かせた。
視界に彼女が入ると、その腕を伸ばしてこちらへ来いと招く。
「少しね。話し相手がほしかったんだ」
迷惑だったかな?
そう思っていないであろう表情で言う。
紅は伸ばされた手に己のそれを乗せ、ゆっくりと首を振った。
「構わないけれど…織姫が危ないかもしれないわ」
自分があの破面を挑発したということは分かっている。
そんな状態であの部屋を放置してきたとすれば―――どうなるかは、火を見るよりも明らかだろう。
そのまま部屋を去っていれば成績優秀。
去っていなければ…織姫は危険な状態にあるだろう。
「死にさえしなければ、好きにすればいい」
微笑みながら紡がれたその言葉は冷酷以外の何者でもない。
けれど、それが彼という人なのだろう。
必要以上の執着心は見せず、役に立つ織姫ですらも彼にとっては道具の一つ。
ぐっと腰を引き寄せられ、彼の膝の上に移動させられた。
「織姫が死んだらどうするの?」
「計画に支障はない。元々計画には組み込んでいない娘だ」
あの能力は失うには惜しいものだろう。
しかし、それでも彼の計画に寸分も狂いが生じることはない。
彼にとって、彼女はその程度の存在だということだ。
「ねぇ、惣右介さん。もし、私が…」
私が死んだら、あなたはどうするの?
最後までその質問を口に出すことは出来なかった。
結局は中程でとまってしまったその言葉を続けることは出来ず、先を促す視線にゆるく首を振る。
なんでもない、と言ったけれど、彼は彼女が何を言おうとしたのか分かっているのだろう。
「そうか」そう短く答え、前に映されている画面に目を向ける。
「安心しているといい」
「え…?」
「君を死なせるつもりはないよ」
やはり、彼は気づいていたか。
そう思う傍らで、彼の言葉に歓喜する自分が居る。
支障はない、と言う一言で片付けられる織姫とは違う。
「もちろん、傍を離れて勝手に死ぬのも許さない」
「私が居なくても、支障はないでしょう?」
「計画には、ね。だが、私は君を手放すつもりはないんだ」
前にも言っただろう?
彼はそう言って紅を背中から抱き込む。
そして、腕の中に納まってしまう彼女の首筋に唇を埋めた。
白い肌の上にポツリと残る、赤い所有の印。
そのすぐ傍らには、消えかけたそれが残っている。
指先でそれをなぞり、薄くなっているその上に唇を落とした。
08.03.22