逃げ水

「お帰り、紅」

にこりと微笑む藍染。
しかし、その目が笑っていないということを、彼自身は気付いているのだろうか。
紅は彼の言葉に微笑みを返した。

「ただいま、惣右介さん」
「ウルキオラはどうしたのかな?一緒に来ると思っていたんだが…」
「彼なら、既に引き返したけれど…何か用でもあった?」

ゆっくりと足を進める紅。
腕の届く範囲まで来ると、藍染は焦れたように彼女の腕を引いた。
ベッドに腰掛ける彼の膝の上に跨る形で引き寄せられる紅。

「ウルキオラに現世での様子を見せてもらおうと思ったんだが…まぁ、いい」
「そう?呼べばすぐにでも来ると思うけれど」
「君から直接聞くとしよう」

そう言うと、彼はその手で紅の頬を撫でる。
その手を2、3度往復させたかと思えば、顎の方へと移動させた。
素肌を這う低めの体温に、紅が僅かに身を竦める。

「まず…理由から聞こうか、紅」

何故、無断で現世に降りたのか。
恐らく、現世に降りただけでは彼もこんなことを聞いてきたりはしなかっただろう。
いや、聞いたとしても、穏やかな笑顔と共に「楽しかったかい」と問うくらいだ。

「理由は…ないわ」
「ない?」
「何となく、行かなければならないような…そんな気がしたの」

我ながら、本当に理由になっていないなと思う。
こんな話を誰が信じるというのだ。
本当の理由を隠すために、あえて恍けているようにしか聞こえない。

「じゃあ、質問を変えようか。行かなければならないと思わせていた原因はわかったかい?」
「…わからなくはないわ」

曖昧な返事だ。
しかし、彼にとってはそれで十分だったらしい。

「朽木との再会は楽しいものだったかい」

最早問いかけではない。
彼の言葉に紅は軽く目を見開いた。
気づいていたのか―――そんな思いを込めて彼を見上げる。

「気づいていないと思ったのかい?」

そう言って、藍染は紅の帯を緩めると、彼女の肩から着物を落とす。
肌理細やかな白い肌の上に残る、縛道の痕跡。
本来は大虚用に考案された術ゆえに、人に使うとこうして痕が残ってしまうのだ。

「この霊圧は、朽木白哉のものだろう」

なるほど…紅は納得した。
術には、その術者の霊圧が残る。
その痕跡を消すことももちろん可能なのだが、いろいろと面倒な工程を踏まねばならないのだ。
それに費やす霊力が勿体無いと言う事もあり、今となってはそれを消す者はあまりいない。

「特式、八方従印だね」

独特の霊圧により、彼はそれに気づいたようだ。
紅の肌に残る痕を指先でなぞれば、彼女がぴくりと肩を揺らす。
くすぐったさとはまた違った感覚がこみ上げた。

「雪耶からの頼み…と言うか、命令だったのかな」
「…その通りよ。惣右介さんは何でもお見通しね」
「いや、貴族の連中の考えることはわからないよ。美しい蝶は、羽をもいでしまえばその美しさを失うというのに…」

そうしてまで己の手の内に留めようとすることは愚かだ。
そう呟き、藍染は紅の肩に残る痕に唇を落とす。
しっかりと刻まれたその痕が、まるで所有印のようで、酷く苛立つ。

「惣右介さん?」

負の感情により、彼の霊圧が僅かに乱れる。
敏感な紅がそれに気付かない筈もなく、彼女は不思議そうに彼を呼んだ。
しかし、返事はない。
代わりに、彼は彼女の身体を強く引き寄せてシーツの上に転がした。
痛みはないが、突然の出来事に目を見開く彼女。
そんな彼女を見下ろし、藍染は薄く笑った。

「君を呼んだのは朽木白哉かな」
「惣右介、さん?」
「私はね、紅。君が思っている以上に、嫉妬深いんだ」

覚えておくといい。
そう言って、彼が覆いかぶさってくる。
顔の横に肘をつかれれば、その距離はぐんと縮まった。
唇が触れ合いそうな距離で紡がれる言葉に、紅の脳内は思考を手放していく。

「他の男の痕を残すなんて…随分と油断したね」
「ごめんなさい…」
「あぁ、謝る必要はないよ」

彼の指先が髪を梳き、結びを解く。
バラっと崩れた髪が白いシーツの上に波打った。

「それとも、朽木に縛られることを望んだのは君自身かな?」
「そんなわけないっ」

即座に否定の声を上げる彼女に、藍染は珍しげに目を見開いた。
しかし、すぐに満足げな笑みを浮かべる。

「私、望んだりしていないわ…。白哉のことは嫌いではないけれど、ただ友人として…」

目元が熱くなってくるのを感じ、紅は顔を背けた。
こんな所を見られたくない。
そんな思いを込めた行動は、藍染の手によってこともなげに妨害されてしまう。
顎を掴まれ、否応なしに彼の方を向かされる。

「言い方が悪かったようだね。紅、私は君を疑っているわけじゃない」

だから泣かないでくれ。
そう言って彼の親指が目元を撫でた。
今しも零れ落ちそうだったそれを掬われる。

「今は尸魂界との関係も悪化の極みだ。無茶な行動は控えてもらいたい。―――わかるね?」

優しく諭すような声色に、紅は一度うなずいた。
それを見て、彼はまた満足そうに笑うのだ。

「君の実力は信じているよ。だが、紅は優しいからね。
八方従印を使われたと言うことは、朽木を斬れなかったんだろう?」
「…ごめんなさい」
「その優しさは、誰もが持っているものじゃない。現に、朽木にはない優しさ…この場合は、甘さと言うべきかな」

こちらが二の足を踏んでしまうところで、相手はその一歩を踏みこめる。
それは大きな差だ。
場合によっては命すらも落としかねない隙となる。
それを言わんとしているのだということは、紅にもわかっていた。

「君がその甘さをなくさなくても、私が守れば済むだけの話だ。だが…それには、君が傍にいなければ意味がない」
「…ええ」
「それなら、これからは無断で虚夜宮を出ることはしないでくれ」

私でも心配するんだよ、と告げながら、彼が紅の頬にキスを落とす。
くすぐったそうに身をよじり、彼を見上げた。

「心配なんてしないくせに」
「おや、心外だな。心配していなかったら、ウルキオラを向かわせる筈がないだろう?」
「…本当に?」

クスクスと笑い、彼が何かを答える前にその唇を己のそれで塞いでしまう。
絡みつくように腕を首へと回せば、主導権はすぐに紅の手を離れた。

再びシーツの波に沈んだ後は、思考とは無縁の世界へと誘われるのみ。

07.12.28