逃げ水
ぎしっと身体が軋む。
八方向から伸びた帯が紅を束縛し、その細い身体を締め上げていた。
少し考えればわかる事だ。
あの白哉が、意味のない会話をするほどお人好しではない。
意味があったのだと、そう気付けなかったのは、紅の初歩的なミスだ。
「縛道特式、八方従印」
刀の代わりに、そんな声が聞こえた。
覚えのある術に気付いた時には、すでに四肢の動きを奪われていた。
鬼道の中でも、限られた者にしか扱う事ができず、数字を持たない八方向から対象を束縛する縛道。
普段は八人がそれぞれの位置で術を発動させ、大虚などを対象とする。
使いこなすにはそれ相応の霊圧と確かな技術を要する、高度な術である。
「たった一人でその術を仕掛けてくるとは、思ってなかったわ」
一人でも出来ない事はないが、正確な座標に霊力を置き、全てを同時に発動させねばならない。
並みの死神が出来る事ではないのだ。
尤も、紅の前に居るのは、とてもではないが並とは言えない死神なのだけれど。
「…油断したわね」
「紅…お前は、どうやら弱くなったらしいな。この程度の術で捕らえられるとは思っていなかった」
尸魂界で過ごしていた時の紅は、鬼道に長けた死神であった。
十一番隊と言えば、護廷十三隊の中でも屈指の戦闘員の集まりだ。
悪く言えばゴロツキの集まるそこで四席の地位に落ち着いていたのは、その鬼道のお蔭。
十一番隊第四席の雪耶には、如何なる鬼道も通用しない。
鬼道衆から抜擢されていると言う噂も実しやかに流れたほどだ。
白哉もそれを知っていたのだろう。
「…白哉が拘束するに留めている理由…当ててあげましょうか?」
拘束してからと言うもの、止めを刺すわけではない彼。
そんな彼に対し、紅は薄く笑った。
「雪耶からの要望でしょう?生かして連れ帰れ―――そう命令されて来たのでしょう?」
「知っていたのか」
「貴族の考える事なんて、どこも同じだわ。世間体を守るために、不穏因子は即刻排除。
排除できないものは…せめて、己の監視下に置く。罪人なんて、もってのほか」
紅を排除する事など出来ない。
恐らく、尸魂界の中でも、彼女をどうにかできる死神などごく一部だ。
況してや、死神でないとすると…紅の家に、そこまで強い人は居ない。
そうなれば、排除できない不穏因子は監視下に留めておくしかない。
今この状況で白哉がここにやってきたのも、雪耶の家から直々の「お願い」があったからなのだろう。
「そこまで理解しているならば、話は早い。お前を尸魂界へと連れ帰る」
「…ねぇ、白哉」
一際優しい声で、紅は彼を呼んだ。
予想外の声に、彼の行動が一瞬でも止まってしまう。
そんな彼に対し、彼女はにこりと微笑んだ。
「今日はよく喋るのね。お蔭で、作業が楽だったわ」
言い終えるが早いか、彼女を拘束していたそれが弾け飛ぶ。
ガラス片を砕いたような音と共に、紅を束縛していたそれが完全に消え失せた。
「如何なる鬼道も通用しない。それは、全ての鬼道の対処法を持っていると言う事」
この程度の束縛、抜けられない筈がない。
束縛された時点で、紅はそれから逃れる術を持っていた。
あえて会話を長引かせて時間を取ったのには理由がある。
何もない空間に、それは突如として現れた。
「紅様。お迎えに上がりました」
「!」
「予想通りの時間ね、ウルキオラ」
紅はウルキオラの出現にも驚かず、ただ微笑みを深めた。
藍染は、紅が現世に向かった事に気付く。
気付いていて、彼はあえて即座に呼び戻したりはしない。
ある程度の時間を置き、使いを寄越す。
全ては紅の予想通りだった。
「藍染様がお待ちです」
「ええ。きっと、怒られてしまうわね」
勝手に出てきたから、と呟くが、彼は何も答えない。
紅は手に提げたままだった斬魄刀を鞘へと納めた。
そして、すでに捕まえるつもりのない白哉を振り向く。
「話せてよかったわ。やはり、あなた達とは相容れられないのだということが、よく分かった」
「尸魂界に立て付くなど、愚かな事だ」
「ええ、そうね」
受け入れる事もなければ、否定する事も無い。
話は終わった、とばかりに背を向ける彼女。
完全に隙を見せている今ならば、捕らえる事は出来るだろう。
しかし、白哉は動かなかった。
「…あなたも、昔に比べると随分と甘くなったわ」
背を向けたままそう呟く。
小さい声ではあったけれど、それは彼の耳に届いただろう。
紅は口元に薄く笑みを浮かべた。
「始末しますか?」
「必要ないわ。あなたも無事ではすまないから」
ウルキオラの問いにそう返し、最後の一歩を踏み出す。
彼女が近づいてきたのを見届け、ウルキオラが軽く手を上げる。
空をぶち抜いた反膜が二人を包んだ。
「先程の質問に、答えておくわ。―――…きっと、あなたの元に嫁いでいたとしても…私は、ここに居ると思う」
反膜に遮断された、二人の位置関係。
違う過去を歩いてきたとしても、行き着く先はここだろう。
仮に白哉と一緒になっていたとしても、藍染に惹かれる事は止められなかったと思う。
それが、必然なのだ。
ゆっくりと上昇していく視界を閉ざし、紅はそう思った。
「何故、勝手に虚圏を離れたのですか?」
「どうしてかしらね。呼ばれた…からかもしれないわ」
暗くはない廊下を歩きながら、ウルキオラがそう問いかける。
紅は悩むような素振りを見せつつ答えた。
彼女自身、明確な答えを持ち合わせていないのだ。
「藍染様から聞いて、驚きました」
「ごめんなさいね。あなたには面倒な事をさせたわ」
若干歩みを遅くしたウルキオラを追い越し、廊下を歩いていく。
向かう先にあるのは、虚夜宮でも一際存在感のある霊圧の持ち主の自宮。
これ以上共に進むつもりはないのか、ウルキオラは追い越した時点で足を止めていた。
「ありがとう。助かった…訳ではないけれど、来てくれてよかったわ」
反膜がなければここに戻ってくるために腕の一本くらいは覚悟しなければならなかったかもしれない。
無傷で楽な帰路へと着く事ができたのは彼のお蔭に他ならなかった。
紅がそう言うと、彼は軽く頭を下げて踵を返す。
遠ざかっていく背中を見送る事もなく、紅は歩き出した。
感じる事のできる彼の霊圧が、微妙に荒れている。
本当に小さな違いだから、付き合いの長くない破面たちには分からないだろう。
そう感じるのと同時に、紅は笑った。
彼を乱すのが自分なのだと、その事実に。
07.12.20