逃げ水
どうしてこんな事になっているのだろうか。
井上織姫の一件は、尸魂界は傍観を決め込んでいる。
動くのは現世に居る死神代行の少年とその仲間くらいだろう。
恐らく尸魂界が牽制しただろうが、彼らはそれくらいでは立ち止まったりはしないはずだ。
そんな穏やかな性格だったならば、ルキアを救うために僅かな人数で尸魂界に乗り込んできたりはしない。
「片をつけるなら、今…かしらね」
見上げた月は驚くほどに美しい。
夜空の高さを痛感させる満天の星が見下ろす中、紅はそれらと共に眼下の町並みを一望した。
単身現世へと身を投げた紅。
市丸や東仙…藍染にすら、それを告げなかった。
その理由は彼女自身にも分からない。
「なぜか来なければならないような気がしたなんて…」
なんて、馬鹿らしいことだろうか。
今更自分の第六感の存在を信じていたりはしない。
けれど、現世に来なければという思いだけがただ只管、紅を刺激し続けた。
結果として、それに頭を垂れる形で、彼女は今、ここにいる。
「あの子を殺したら…惣右介さんは、怒るかしら」
あのオレンジ色の髪の少年を思い浮かべ、紅は瞼を伏せた。
きっと、彼は藍染の障害になる。
面白い人間だ―――そう言って、藍染が彼を褒めていた。
彼自身はそれを障害だとは思わないだろう。
しかし…紅としては、どんな小さな小石であったとしても、できることならば先に取り除いてしまいたい。
それが、他者の命を奪う結果なのだとしても。
不意に、風が紅の髪を撫でる。
それにあわせるかのように、彼女は唐突に目を開いた。
その視界に入り込んだ、白銀の刀身。
見えたのは一瞬だが、ギリギリの所でそれを回避する。
シュ、と控えめな音と共に、彼女が身に纏っていた白い着物の裾が裂けた。
紅はそれを一瞥する事無く、瞬歩を使って間合いを取る。
相手の追撃はなかった。
「…あなたは…あなただけは、来ないと思っていたわ」
数メートルをおいて対峙した相手に、紅はそう告げる。
他の誰が来たとしても、この人だけは来ないだろうと思っていた。
二人の実力からすればあってないような距離だが、気休め程度にはなる距離。
その間を風が吹き、白と黒のそれぞれの死覇装を揺らした。
「態々地獄蝶を従えて、現世に来るなんて…どう言う風の吹き回しなの?…白哉」
ほんの少しだけ、昔のように微笑んだ紅。
彼女の前に立っているのは、六番隊の隊長―――朽木白哉。
六を刻んだ白い羽織が彼の背中で揺れる。
「ルキアの記憶を操作したな」
「…………何の事かしら。私は彼女に会っていないわ」
「私が霊圧の名残に気付かぬと思うか」
侮るな、と表情がそう言っている。
彼の言葉に、紅は素直に納得した。
彼ほどの実力者だ。
僅かに残った痕跡に気付くのも、おかしい話ではない。
それよりも、その痕跡を悟ったからと言って彼がこうして現世に赴いている事が意外でならない。
「傷は癒えた?」
一護との一戦による傷、市丸の刀による傷。
全てを含めた紅の問いかけに、彼は答えなかった。
「その様子だと、完治しているようね。命に別状がなくて何よりだわ」
珍しくも、白哉がその言葉に軽く目を見開いた。
彼女の表情を探ってみても、それが本心のものであるという確信が深まるだけ。
なぜ、今更自分の傷の事など心配するのか。
釈然としない感情だけが白哉の中に留まった。
「そんなに驚く必要なんて、ないでしょう?尸魂界に未練はないけれど、あなたたちが嫌いと言うわけでもないわ。
もしそうなら…ルキアを、無事に帰したりはしなかったでしょうね」
紅の実力をもってすれば、ルキアを殺す事は簡単だ。
それこそ、赤子の手を捻るように、一瞬で片がつく。
「隠す生活に飽きが来たの。ただ、それだけよ」
「…紅」
短くその名を呼ばれた。
再会して初めて紡がれた名前は、紅の耳にすんなりと入り込んでくる。
「何故藍染の元についた?」
「…あなたらしくない質問ね。罪人は斬る―――ルキアの時は、そうしようとしていたじゃない」
義理とは言え、彼にとっては妹であるルキア。
そんな彼女が極刑に処されると決定した時、彼はそれを覆そうとはしなかった。
それなのに、自分にはその質問を投げるのか―――そんな思いを込めた紅の言葉。
「ルキアを極刑に巻き込んだ人と一緒に消えた私。罪がないなんて、言わないわよね?」
自分が藍染と共に尸魂界を去った事は周知の事実。
最早、自分はルキアにも勝る罪人のはずだ。
「私が憎いでしょう?ルキアを殺そうとしたも同然。あなたにとっては…敵でしょう?」
「憎まれる事を望むか」
「そうね。あなたたち死神に憎まれ、敵と見做される事で…私は、あの人の傍に居られるから」
「…最後に一つだけ問う」
白哉はそう言って一旦は口を閉ざした。
知人でもなく友人でもなく、二人の関係は酷く曖昧だ。
これが心地よいと思ったこともあるけれど、今はただそれが厄介でならない。
「…あの時、私の元へ嫁いでいれば、今こうして相見える事はなかったのか?」
藍染と婚姻と言う繋がりがなければ、共に尸魂界を去る事はなかったのか。
彼はそう問いかけているのだろう。
紅は静かに息を吐き出した。
「私があの人の妻となり、あなたが緋真の夫となった事は過去であり事実。
それら全てを覆し、仮染めの会話をするつもりはないわ」
そう答えた紅の声は、静かに、しかし鋭いものだった。
彼女は動かした手を斬魄刀の柄にかけ、ゆっくりとそれを引き抜く。
刀身の8つの穴にはまった色取り取りの玉がキラリと夜空を映した。
抜刀した紅を前に、白哉は瞼を伏せる。
そして、その姿が消えた。
「――――っ」
ガキン、と刃がぶつかり合う。
目で追うことが難しいほどの速度を誇る彼の瞬歩。
防いだまでは良かったが、後の力勝負に持ち込まれれば、紅の不利は歴然だ。
彼女はその高すぎる霊圧により、鬼道に長けていた。
もちろん、それだけではなく剣の技術も持ち合わせている。
けれど、そちらは隊長格に匹敵するほどではない。
鬼道の面を差し引いたとしても、白哉との間には埋まらない経験と言う名の差がある。
彼の斬魄刀が紅の肩を裂いた。
「私と対峙して、無事に帰る事が出来ると思っていたか?」
肩に続き、腕に一筋の傷が出来る。
鋭い痛みの後に波の様な鈍痛が押し寄せ、彼女の思考を狭めた。
「始解すらせぬままに、私と刀を交えようなど…自惚れるな」
始解。
その言葉に、紅が僅かに肩を揺らした。
斬魄刀を解放すれば、白哉に勝つ事は出来る。
しかし、制御出来ない斬魄刀の解放は、彼の命を奪う事でもあった。
―――白哉様を頼みます。
脳裏を過ぎったのは、優しすぎる声。
病でもう先が永くはないと悟った、彼女の声だ。
紅の隠していたことなど何一つ知らず、彼女を友人として慕ったままに命を散らせた白哉の妻、緋真。
彼女と過ごした僅かな時間は、紅にとっても偽りの時間ではなかった。
「……月下…」
途中までその名を紡ぎ、唇が動きを止める。
―――あの方は、あなたを信頼しています。…私の代わりに、支えてあげて…。
解放しなければ、白哉には勝てない。
勝てなければ、彼の元には戻れない。
分かっているのに、あと少しの所で記憶が紅の邪魔をする。
動きの鈍る彼女の隙を見逃すはずもなく、彼の刀が紅に迫った。
07.12.13