逃げ水
受け入れる。
そう言われても、すぐに全てを見せることなど、出来る筈もない。
まず、藍染と過ごす時間が増えた。
それに関しては、不名誉な噂が立つ事はない。
元より、穏やか、優しいと好意的な印象を持たれている二人だ。
そんな、どこか似た空気を感じさせる彼らが一緒に居たとしても、誰も不思議には思わなかった。
そして何より、二人がその変化を周囲に悟らせなかった。
仕方がない時はさておき、何か用件がある時には常に別の第三者を交えていたし、時間も数分だけ。
彼と過ごす時間の増えた部分の大半は、瀞霊廷の外で会う時間だった。
「その若さで雪耶家の当主を継いでいるとは思わなかったな」
広すぎる雪耶邸の中、藍染はそう言って笑った。
こんな風に笑う彼を、何人の人が知っているのだろうか。
どこか嘲笑うような雰囲気すら感じさせるそれも、もう慣れてしまった。
別に嘲笑っているわけではないだろう。
ただ、彼と言う人は…少し悪い言い方をすれば、高圧的な空気がある。
それが、そう感じさせるだけだ。
「…元々、竜神を受け継いだ者が当主を継ぐ事になっているの。表向きの行事などは全て父が代行しているわ。
実質の当主は彼と言っても過言ではない。彼自身も、それを疑っていないでしょうね」
実の親ですらも、その能力がなければ竜神の話を耳にする事はない。
言ってしまえば、一種の象徴のようなものなのだろう。
竜神を宿した斬魄刀を持つ、神に愛された子。
それは、神にも等しい存在なのだ。
「愚かしいな」
そう言って藍染は笑った。
紅は驚いたように彼を見る。
「いくら崇め奉ろうとも、所詮は人。尸魂界と言う箱庭に生きていては、その力を存分に発揮するなど不可能だ」
「…そうね。所詮、人は人以上になることなど、出来はしないのだから」
紅は少し哀しそうに微笑んだ。
生まれた時から、彼女の身体には竜神の加護があった。
学院を首席で卒業した時、彼女はすでに斬魄刀の全てを開放することができたのである。
卍解に至っている記録がないのは、雪耶家の特別な空間でそれを習得したから。
「私は、一族の人の屍の上に生きている」
紅が初めて卍解を成功させたのは、もう50年以上も前の事。
彼女の力を引き出すべくそこに居た数十人の一族の者は、骨すらも残らず塵と化した。
己の内に潜む力の大きさ、恐ろしさ。
彼女はそれを、身を持って体験し、そして痛感した。
「…怖かった。いつか、この身の全てを奪われるような気がして…恐ろしかった」
大きすぎる力を前には、頭を垂れる事しかできないだろう。
紅はいつしか、そう思うようになっていた。
―――この力はそなたの為に在る。
そう言われた言葉すらも忘れ、怯える自分を見かねたのは、彼だった。
「竜王は私に己の封印方法を教えた。私は、教えられるままにそれを実行した」
そうして、最小限に抑えた力のまま過ごす事になった。
紅はそう言ってから苦く笑う。
「私は、あなたの望むような強い人ではないわ。強すぎる力を恐れ、己を守る事を優先した」
結局は、自分だけが全てなのよ。
そう言う彼女を前に、藍染は短く息を吐き出す。
溜め息にも似たそれは、どこか呆れの色を含ませていた。
「違うな。君が守っているのは、周囲の人間だ。恐れているのは…自分がそれらの人を殺す事」
「…」
「己の力を恐れているだけならば、使いこなせるようになればいい。
それを拒むのは、同じ事を繰り返すことへの恐怖」
それを人のためと呼ばずして、何のためと言うのだ。
自分が罪を重ねたくないから、そんな風に言えば、巡り巡って自分のためと言う事になるだろう。
しかし、その全てが己の為と言うのは浅はかな考えだ。
彼はそう言って、一歩足を踏み出した。
それから逃げるかのように、彼女は一歩後退する。
「逃げたければ、逃げればいい」
「…近づかないで」
「本能が理解しているんだ。捕まれば、二度とその檻から出られないことを」
「……踏み込まないで…っ」
とん、と背中が壁に触れる。
元より、逃れ続ける事などできはしないのだ。
「私はあえて君の手を掴もう。囚われたのだと、君自身が理解できるように」
少し体温の低い手が、紅の手首を掴んだ。
紅は自分が用意された檻の中に堕ちたのを感じる。
「逃げる事は許さない。その力ごと、私のものだ」
至近距離で見つめる眼差しに眩暈を覚えた。
迷いなど一切見せない目が、声が。
全てが、紅を捕らえる枷となる。
「あなたは…何故…?」
今更、力を望む必要などないはずだ。
まるで紅にその危険さを伝えようとしているかのように、斬魄刀が鳴く。
頭に直接響くようなそれは、彼の危険さを如実に表しているものでもある。
「何故…か。その理由は、私自身も探している最中だ」
絡め取った手を離さず、もう一方の手で頬を撫でる。
完全に動く事を失った紅は、促されるままに顔を上げた。
いつもは眼鏡越しに見上げる彼の眼差しは、一枚の壁を失ってその本質を垣間見せている。
その目の奥に見えたものは何だったのだろうか。
「理由は必要ない。君はただ…傍にいればいい」
それだけだ、と紡ぐ彼との距離がゼロになる。
触れた瞬間に感じた、熱過ぎる想い―――これを、人は何と呼ぶのだろうか。
―――紅。
短く名前を呼ばれた紅は、閉じていた目を開く。
すでに見慣れた部屋の中の風景がその視界に入った。
目を慣らすように何度か瞬きをして、それから声の主を探す。
―――そなたは、後悔しておらぬか?
聞こえた声の主が、目で見て探す事の出来るものではないと思い出し、紅は僅かに口角を持ち上げる。
声の主は、今の今まで紅が過去を思い出していたことを知っているのだろう。
「後悔など…していないわ。あの日、あの人の手を取った事を…素直に喜びたいくらいよ」
あれから何年、何十年の月日が流れた。
少し縮まっただけだった距離は、今となっては殆どないも同然だ。
あの時はただ救いを求めていた。
けれど、今は…。
「愛していると…。いつか、あの人の重みになってしまうような感情を、捨てられないでいる」
寧ろ、一分一秒と深まっていく思いを、どうして止める事ができようか。
紅にとって、彼が世界の全てとなっていた。
「月下竜王…いずれ、あなたの力を借りる日が来るでしょう。その時は…よろしくね」
―――心得た。我が力は、そなたの為に在る。
あの頃、この言葉を聞いた時には、それを信じられなかった。
けれど…今ならば、信じられる。
紅は近づいてくる足音を聞きながら、斬魄刀の鞘を撫でた。
音を立てて開かれた扉の方へと視線を向け、柔らかく微笑む。
「おかえりなさい、惣右介さん」
進む先が闇であろうとも、彼が歩くと言うならば。
自分も、それにつき従うのみ。
どうして、と繰り返した織姫の顔が頭に浮かんだが、紅は無理やりにそれを押し沈めた。
07.12.07