逃げ水

全てを見せることを諦めていた。
微笑む事で、相手の興味を別の所へと向ける術を覚えてしまった。
そうして、どんどん自分の内側へと隠れていたのだ。
或いは、隠していたのだろうか。

「雪耶くん…だね。初めまして」

同じだから気付いた。
彼もまた、偽りの仮面を持つ人なのだと。











何年十一番隊の四席の座についていたのかは覚えていない。
途方もない時間だった事は、分かる。
あの日、紅は単独で現世の魂葬任務へと着いていた。
戦闘色の強い十一番隊の四席が選ばれたのは、その地区に頻繁に虚が出現していると言う理由からだ。

「月が綺麗ね、月下竜王」

現世はいい。
自分へと向けられる目がないから、笑う必要がない。
十一番隊には似合わず、事務処理派の紅には、あまり現世の任務は回ってこなかった。
暴れたい連中が挙って任務を取り合うからだ。
偶々、先の大きな任務での負傷者が多く、手が足りなかった為に彼女に白羽の矢が立っただけの事。
死神には不向きなほどに優しい死神―――そう呼ばれた紅が、自ら現世の任務を取りに行く事は不可能に近かった。
自縛霊に片足を突っ込んでいた魂魄を送り、紅は独り空を仰ぐ。
弓なりに身体を細めた月が、彼女を見下ろす。
今この瞬間だけは、彼女は自由だった。

「…我が手に集え、月下竜王」

解号を唱えるのと同時に、紅の背後から虚が出現した。
不気味な仮面の虚は、背後を取った事に驕る。
そして、次の瞬間には灰と化した。
分子レベルで分解されたかのように、一瞬の内にその形を失う。
サラサラと流れていく虚であったものを見ながら、彼女は目を細める。
抜刀すらしない彼女の周囲には、鬼火のような炎が8つ浮かんでいる。
蒼、碧、緋―――どれ一つ取っても、同じ色はない。
微妙な色合いで変化したそれが、彼女の周りにつき従うように揺らめく。

「まるで鬼火使いのようだな」
「!!」

唐突に聞こえた声に、紅は飛び上がらんばかりに驚いた。
信じられない物を見るかのように振り向く彼女の動作に、隙はない。
油断していたつもりはないのに、背後から声を掛けられるまでその存在に気付かなかった。
信じられない―――紅は驚愕の表情を消せずにいた。

「藍染…副隊長…」

後ろで人の良い笑みを浮かべていたのは、藍染惣右介その人だった。
副隊長としてもそれなりに長く、かつ優秀だと有名な彼は、近い内に隊長に昇格するだろうと言う噂だ。
先日、五番隊の隊長が病に倒れた為、その席が空席になっているのだ。

「雪耶くん…だね。初めまして」

柔らかく微笑んでいるのに、何かが違う。
それに気付くのは、恐らくは自分だけだろう。
この人もまた、偽りの仮面と共に日々を過ごす人なのだと、その瞬間に理解した。
紅を守らんとするかの如く、鬼火が激しくうねる。
その様子に、彼はその偽りの仮面を外した。

「あぁ、やはりな…。君は、私が考えていた通りの人間だ」

嬉しそう―――そう形容する他ない、彼の表情と言葉。
事務的な挨拶以外は初対面であるこの人が、なぜそんな事を言っているのか。
紅の思考はその辺りから追いつかなくなった。

「8の頭を持つ竜神を宿す、幻の斬魄刀」
「…どこで、それを…?」

一族の中で代々受け継がれるそれは、素質がなければ親子でもそれが継がれる事はない。
そうして、数百年に一度、主を変えてきた。
一族の中では生まれた時から緘口令を布かれ、力のない子供はそれを耳にすることすらない。

「随分と苦労したよ。まさか、王族の管轄になっているとは思わなかった」

鉄壁に守られた情報。
それを探し出すのは容易な事ではなかった。
藍染とて、数十年…まもなく百に届こうかと言う年数をかけたのだ。
彼と言う人を肌で感じた紅は、思わず一歩下がる。

「この時を待っていた。君に対する意識が一つもなく、その本質を表へと見せる、この瞬間を」
「…………………」
「その本質は非常に興味深い。君を深く知りたいと思う」

差し出された手を見下ろす。
有無を言わせぬ空気を纏わせたそれ。
しかし、紅は言い知れぬ恐怖感の中でも、それに押し負ける事無く自身の意思を貫いた。
即座に手を取ったりしない彼女に、彼は笑みを深める。

「十一番隊の隊員には悪い事をしてしまった。君を現世に向かわせるのは、中々骨が折れたよ」
「…どう言う事…?」
「戦闘要員である彼らを使えなくするのは、大変だった。そう言う事だよ」

つまり、あの一件は藍染の手の内だったと言う事か。
虚の姿形だけではなく、その特徴までもしっかりと報告されている。
あれは嘘ではない筈だ。
そうなると…藍染が、虚と深い関わりを持っているということなのか。

「君は、己を偽る事に慣れてしまった。故に、変化を諦めている」
「…少なくとも、副隊長には関係のないことかと思います」

そう答えながら、紅は刀を抜いた。
しかし、彼女に藍染を斬ろうと言う意思はない。
白銀の刀身には、鍔に近い位置に合計8つの穴が開いている。
一つ、鬼火がその穴の中へと消える。
キンという澄んだ音が響いたかと思えば、そこに鬼火と同じ色の玉がはまり込んだ。
同様に他の7つも刀へと還り、8つの穴全てが埋まる。
それを見下ろし、紅は刀を鞘に戻した。

「藍染副隊長の行動に関しては、私は何も言いません。副隊長も、他言無用でお願いします」

では、と彼女はその場から去ろうとする。
背中を向けた彼女は、今この場で背中を斬られようとも彼を憎んだりはしないだろう。
彼女は、生きる事すら諦めていた。

「私は…君を受け入れる」

ピクリと紅が反応を示し、その足が止まる。
振り向かないまでも、ある程度の効果を見て取った藍染は更に続けた。

「その身に秘めているのは、竜神に愛された娘に相応しく、恐ろしい霊圧だ。
並の死神を消滅させるのも難しくはないだろう」
「―――――」

一瞬気配が動いたかと思えば、彼は紅の真正面に居た。
彼女の表情には迷いがある。

「私は、その霊圧ごと君を受け入れよう。その竜に飲まれることもなく、君の傍に在る事を約束する」
「…あなた一人に、何が出来ますか?」
「少なくとも、君を独りにはしない」

迷いなく答える彼に、紅はその目を揺らした。


本当は、独りで居る事に疲れたのかもしれない。
本来の自分を押し隠す事に、飽きてきていたのかもしれない。
その一瞬、紅は確かに変化を求めていた。


「雪耶くん…いや、紅。その力、私の為に使ってみないか?」

差し出された手は、地獄に垂れる蜘蛛の糸が如く。

07.11.28