逃げ水

魂魄でも、霊圧があれば腹が空くのだから、人間である彼女に食事が必要であるのは当然の事だ。
彼女の元へと足を運ぶついでに、トレーに乗せた食事を運ぼうとしていた破面からそれを受け取る。
紅の事を知り、傅くことを納得しているらしく、その破面は恭しくも頭を垂れながら紅を見送った。
居心地の悪さを感じつつもそれを表情に出さないのは、自分が藍染の隣に立つ者であると言う自覚からだ。
頂点に立つ者に続く自分が、下の者に無様な姿を見せる事は出来ない。
見せて良いのは、毅然とした態度だけだ。
その破面の気配を感じ取れない遠い所まで来た紅は、そこで漸く一息つく。
手に持ったトレーが、大して重くも無いのに腕を疲れさせているような気がした。
織姫の部屋は、もうすぐそこだ。




「―――随分と暇そうにしているわね」

そう声を掛ければ、目の前に見えていた背中が十数センチは跳ね上がる。
驚きのままに振り向く彼女を見ながら、紅は部屋の中へと入った。
大きなソファー以外に目を引く家具は、絨毯を残しては他にない。
無駄なものの置かれていない室内を一瞥してから、紅はトレーを彼女に押し付けた。

「あ、…」

他の破面ではなかった事に安堵しているのだろう。
どこか強張りの抜けた表情でそう呟く彼女に、何も答えない紅。
す、と視線を逸らしてから、部屋の壁の一つに背中を預けた。

「毒なんて入ってないから、食べなさい」

渡されたトレーを見下ろしている織姫にそう声を掛ける。
紅の言葉に数秒を置いて、彼女は食事に手をつけた。










無音ではないにせよ、無言の時間が過ぎる。
空になった食器の乗ったトレーを取りに来た破面が下がり、室内はいよいよ無音の世界になった。

「あ、の…紅…様…」

控えめに掛けられた声に、紅は窓の外を見上げていた視線を動かした。
躊躇いがちに瞼を振るわせる織姫は、それでも気丈に紅を見つめている。

「今まで通りで構わないわ」
「は、はい」
「…何か、言いたい事があるんでしょう」

それを聞きに来たのだと。
別に、態々足を運ぶ必要は無かったのだ。
ただ、ほんの少しだけ。
敵陣にたった一人で放り込まれた彼女の心細さを思い、偶々足が動いてしまっただけ。
お人好しも大概だな、と心中で自嘲の笑みを零す。

「……………どうして、裏切ったんですか?」

長い沈黙の後、織姫はそう問うた。
その質問に対し、紅は表情には出さず、苦笑する。
よくもまぁ、敵として敵地に居る自分に向かって、それを問えるものだ。

「あなたは私になんと答えて欲しいの?“私は裏切っていない”。それとも―――“彼らが嫌いだから”?」
「そんな…っ!」
「理由なんて、必要ないでしょう。今私がこの場に居る。それだけが現実であり、真実よ」

冷たくもそう言い放った紅に、織姫は反論の言葉を失ったようだ。
唇を震わせて俯く彼女。

「…朽木、さんが…あなたは裏切っていないって…。何かの間違いだって、泣いて…っ」

紅の知る中に、朽木と言う苗字を持つ者は二人居る。
一人は朽木家当主である白哉。
彼は紅が裏切っていないと…それに、紅が関係していようがいまいが、涙を流すなどない。
となれば、織姫の指している「朽木」はルキアのことなのだろう。
つい数時間前に対峙したルキアの表情と声が甦り、僅かに眉を顰める。

「紅さんは、旅禍の私達にも優しくしてくれましたよね。どうして…ここに居るんですか?」

瀞霊廷内に入り込んだ侵入者である彼女達。
藍染から何も聞かされていなかった紅は、自身の独断で彼女らと接触した。
死神として生きていた頃の、優しい彼女のままで。
どうして、と繰り返した織姫に、紅はあの時のように柔らかく微笑んだ。

「織姫…と言ったかしら」
「…はい」
「あなた、大切な人はいる?」
「…います。沢山」

紅の質問に対し、彼女が肩を揺らすのが見えた。
その反応に、あぁ、と思い出す。
彼女は、その大切な人物の命を揺さぶられ、結果としてこの場に居るのだ。
少し不向きな質問だったかもしれない。
しかし…彼女の答えは、紅の望むそれではない。

「言い方が悪かったわね。あなたに、愛しいと思う男性はいるのかしら」

笑みを消さずに質問を変える。
語尾を持ち上げる事がなかったのは、ある種の確信があるからなのだろう。
追い詰められた小動物のように右往左往していた織姫の眼差しが紅へと落ち着く。
そして、数秒後に目に見えて頬を赤く染めた。
答えなど必要ないくらいに。

「…想像してみてくれる?その人が、自分の前を歩いているの」

前に見える背中は、見間違える筈もない、愛おしい彼のもの。
追いついて言葉を交わしたい。
その目に自分を映して欲しい。

―――けれど、後一歩の自信がもてなくて、追いつけない。

動かそうとする足は、逆に遠のいてしまいそうに重くなっていく。
静かにその背中を見つめる事しかできない自分の無力さと情けなさだけが胸を占める。

「そんな彼が…振り向いてくれたら?」

自分に向かって、その大好きな表情で、手を差し伸べてくれたら?
その手を拒む事が、出来るだろうか。

「私には、彼を拒む事は出来ない」

紅は静かに瞼を伏せた。

「私は彼を愛している。本当の私に気付いてくれた、ただ一人の人だから」
「本当、の…?」
「…大きすぎる力はね。使いこなせなければ、周囲まで飲み込んでしまうものなのよ」

そう言った紅の表情は儚くて、織姫は言葉を失った。
自分は、彼女になんて事を言ってしまったのだろうか。
織姫に大切な人が居るように、彼女にもまた、大切な人が居た。

―――この人は、心から朽木さんたちを裏切ったわけじゃない。

大切だと思うが故に、起こってしまった悲劇。
相容れることのない、双方の未来。

「本当は、死神の人たちを裏切りたくなかったんですか…?」
「―――…決別の時は、すでに過ぎ去った。私は惣右介さんと共に、己の道を歩くのみよ」

答える紅の目に迷いはない。
あぁ、彼女はすでに決めてしまったのか。
そう思わせるには、十分すぎる強さを秘めた眼差しだった。

「織姫。私はあなたの事を不憫だとは思うけれど…不必要に同情するつもりはない。
惣右介さんにとって害になると判断すれば、私の手で…殺す事になるわ。彼があなたの力を欲していても」

先ほどまでの優しい空気は完全に消し去った。
残っているのは、触れれば切れてしまいそうなほどに鋭いそれだけ。
ゾクリと、織姫の背中を冷たい汗が伝う。

「何一つ、余計な事は考えないで。あなたの心とその能力は、彼のためだけにある」

一種の洗脳にも似た言葉だった。
織姫を殺すつもりはない。
しかし、彼女が藍染にとって害のある人物と成り得るならば―――その時は。
紅は腰に挿した斬魄刀の存在を意識しつつ、彼女を見た。
蒼白と呼ぶにも値するほどに顔色が悪いのは、紅の霊圧が漏れているからだろう。
呼吸を失うほどではないにせよ、生身の人間である彼女には辛い筈だ。
彼女の目がじりじりと見開かれていくのを見ていた紅が、そっと視線を外す。
途端にあふれ出した汗と共に、織姫は全身を脱力させた。

「願わくは、この斬魄刀があなたの血を吸わぬ事を」

そう言い残し、紅は部屋を後にした。
去っていく背中に声を掛ける事が出来ない。
織姫は、一人になった部屋の中でそっと目を閉じた。

「どうして…皆、幸せになれないのかな…」

織姫は紅を完全に敵として見ることが出来そうにない。
自分が仲間である彼らの命を守る為にここに居るように、彼女もまた、大切な人を守るべくここに居る。
彼女の想いや行動全てが悪であると、織姫にはそう思う事は出来なかった。
誰かを想う気持ちは、善悪に振り分けられるものではない。
少しだけ、紅の心に触れたような気がした。

07.11.17