逃げ水

苛立たしそうにウロウロと左右に動くルピを視界に入れないようにして、紅は残りの一人の到着を待つ。
一人、と言う表現は少しおかしいだろうか。
彼は、もう一人―――今回現世にやってきた理由である、井上織姫を連れてくるのだから。

「ねぇ、ウルキオラはまだなの?僕、さっさと帰りたいんだけど」

矛先を紅へと向けることにしたのか、鋭い視線が紅を見上げる。
ルピの言葉に何も答えず、彼女は腕を組んで瞼を伏せた。
反膜によって黒腔へと戻った面子は、ウルキオラを欠いた状態でその場に足止め状態になっている。
一際派手にやられたらしいルピは、戦闘中で帰る羽目になった事、予想以上の痛手を負った事。
その両方に対して、刻一刻と苛立ちを募らせている。
あのまま続けていれば、確実に命を落としていたというのに、だ。
同じく納得していないらしい表情を浮かべている者がもう一人居るが、こちらはルピよりは大人しかった。
少なくとも、苛立ちのままに立ち上る殺気を紅に向けようとはしていない。
紅自身もそろそろこの面子との顔合わせに嫌気が指してきた頃。
漸く、その気配はその場に現れた。

「ウルキオラ」

紅がその名を呼べば、彼は軽く頭を垂れる。
任務は完了した、と言う証だろう。
彼の後ろに、姿は見えないけれど、覚えのある霊圧がある。

「遅いよ!一体何、を…」

ルピの文句は、言葉半ばで途切れた。
その目は信じられないものでも見るかのように見開かれていて、手はウルキオラの後ろを指す。

「何だよ、その女…。人間なんか、連れて…」
「藍染様のご命令だ」

ウルキオラが歩けば、自然と彼女の姿が露になる。
複数の視線を受けた彼女…井上織姫は、見るからに身を強張らせた。

「藍染様の命令!?じゃあ、今回のは…!」
「帰るわよ」

これ以上ルピに言葉を許していると、いつまで経っても戻れない。
そう感じた紅が、静かに声を上げた。
歩き出す彼女を中心に、虚圏への入り口が構成される。
目の前に現れたそれに向けて歩く彼女がルピを追い越すのとほぼ同時に、ルピは織姫の胸倉を掴んだ。

「こんな女に何の用があるって言うんだよ!?」

強い力で引き寄せられ、されるがままに織姫の身体が揺れる。
人間など、破面の前ではまるでガラス細工のようなものだ。
多少の力があるにせよ、今の彼女にルピを拒むほどのそれはない。

「…惣右介さんの望みよ。命令の邪魔をするなら、容赦はしないわよ」
「始めからこの女が目的だったって言うのか!?」

完全に頭に血が上っているらしいルピに、紅は溜め息を吐き出す。
面倒な事この上ないが、ルピが彼女を離さない限り、話が終わらない。
何より、藍染が望んでいるものを壊させるわけにはいかなかった。

「―――その娘から離れなさい」
「紅様!」
「その腕…斬り落とされたくないなら、離れなさい。今すぐに」

眼差しに殺気を乗せ、ルピを睨みつける。
それを一身に受けたルピは、呼吸を忘れて腕の力を緩めた。
織姫が緩んだそこから抜け出すのを見届け、紅は入り口へと向き直る。
話がついた、そう判断したのか、当事者達を除く面子がそちらへと歩き出す。
思い出したように深い呼吸を繰り返した後、ルピは足音荒く一番に虚圏へと戻っていった。

「―――…う、して…?」

か細い声に、紅が足を止めた。
すでに虚圏へと戻った面子の姿が消え、その場には紅とウルキオラ、そして織姫だけだ。

「ど、うして、助けるの…?」
「…女。喋るなと言った筈だ」
「構わないわよ、ウルキオラ。でも…今は聞くつもりはない。言いたい事があるならば、後で聞くわ」

織姫を正面から見つめ、紅はそう言った。
それから、ウルキオラに目配せして彼女を連れてくるように促し、自分は一足先に入り口を通る。
遠いけれど、確かに感じる彼の霊圧に、紅は自然と肩の力を抜いた。
















ゾロゾロと集団で歩くのは性に合わない。
紅は一足先に瞬歩でそこへと辿り着いていた。

「惣右介さん」

彼の背後へと着地した紅は、そう声を掛ける。
紅がここに来る事も、そのタイミングも予想通りだったのだろう。
驚く事もなく、彼は振り向いた。

「おかえり、紅。有意義に過ごせたかい?」
「…過ごせたと思うのならば、あなたの性格はとても褒められるものではないと思うわ」
「それはまた…随分と今更な事だ」

そう言って喉で笑う藍染に、確かに、と納得してしまう。
にこやかな笑顔の裏に闇を隠し、尸魂界で過ごしていた記憶はまだ新しい。
そんな風に人を偽る事のできる彼の性格が褒められるものであるはずがないのだ。

「その顔だと、連れて行った破面達は無事ではなさそうだな」
「…約1名、死に掛けたわ」

お蔭で機嫌が最悪よ。
溜め込んだ息と共に吐き出された言葉に、藍染は楽しげに目を細めた。
こちらに近づいてきている霊圧は、それはもう不機嫌そうで―――彼女の言葉の正しさを物語っている。

「いい目晦ましにはなっただろう」

そう言って、藍染は椅子に深く腰掛ける。
紅は後ろから彼に近づいていった。
すでに視線は彼女を映してはいないし、彼女自身もその足音を消している。
けれど、彼がその接近に近づかない筈はない。
彼女が隣に立つ事をごく自然に受け入れ、そこを見下ろした。
集りつつある十刃が、藍染の隣に立つ紅を見上げる。


そうして、数分後。
身丈の数倍はあろうかと言う入り口から、一行が姿を見せた。

「ようこそ。我らの城『虚夜宮』へ」

楽しげに口角を持ち上げ、藍染は織姫に向けてそう言った。
緊張した様子の面持ちの織姫の目に、彼はどのように映っているのだろうか。

「…「井上織姫」……と言ったね」

彼は以前に紅が言っていた彼女の名を紡ぐ。
はい、とか細い返事が返ってきて、それに間違いが無い事を悟った。
彼にとって、彼女の名前など、最たる問題ではない。

「早速で悪いが、織姫。君の能力を見せてくれるかい」

ザワリと肌が粟立つのを感じる。
紅は織姫に向けていた視線を藍染へと移動させた。
彼の目は、依然として彼女を映したまま。
それに気付いた紅は、己の目を僅かに細める。

井上織姫―――彼女の存在が、紅の心に荒波を立てた。

07.11.12