逃げ水
ふわりと現世に舞い降りた。
あちらこちらで霊圧同士の衝突を感じる所を見ると、どうやら死神と破面が争いを始めているらしい。
出来れば関わりたくはないけれど、と思いつつ、紅はどうしようかと腕を組む。
現世で遊んで来ればいい―――藍染は、彼女にそう言った。
前半部分は現時点で解決しているのだが、問題は後半部分。
遊んで、と言うからには、やはり彼らのうちの誰かと顔を合わせ、それなりに関わりを持たねばならない。
だが、すでに戦闘の勃発している所にはあまり入り込みたくはない。
さて、どうしたものか。
そんな風に考えていた紅は、不意に顔を上げた。
急速に近づいてくる気配には覚えがある。
「…悩む手間は省けたわね」
紅がそう呟くのと同時に、彼女の目の前に姿を見せた死神。
息を切らせ、髪を僅かに乱しながら自分を見つめてくる死神の名は、朽木ルキア。
先程虚圏で確認した時には、すでにどこかに向かった様子だった筈だが…少し、時間軸にずれが生じたらしい。
霊圧の大きさが黒腔の中に歪みをもたらす。
そうそう多いわけではないが、偶にある事例らしかった。
「紅殿…」
その表情から察するに、彼女はまだ自分を敵と見ることが出来ないようだ。
戸惑いばかりが先に立つ彼女を見て、紅は苦笑を浮かべる。
「私の所にあなたが来るとは思わなかったわ」
「私、は…」
ルキアがそう呟き、己の手を刀の柄にかける。
しかし、そこで動きを止めてしまった。
ギュッと唇を噛み締めていた彼女は、勢いよく顔を上げる。
「紅殿…!全て、嘘ですよね?藍染隊長に洗脳されている―――そうですよねっ?」
人を信じると言う事は…何と愚かな事なのだろうか。
真に敵である紅を前にしても、刀を抜く事すら出来なくなっている。
紅にとって、その信頼は苦痛以外の何物でもなかった。
いっそ、今まで裏切っていたのかと、そう憎まれた方がいい。
全身から迸る様な憎悪を向けられる方が、何倍も楽だった。
紅は静かに目を伏せ、己の刀を抜き取る。
「―――刀を抜きなさい」
「紅殿…っ!」
ピン、と姿勢を正し、真正面から刀を構える。
明らかな戦闘態勢を見せた紅に、ルキアは緩く頭を振った。
「もう一度、言うわ。刀を抜きなさい、朽木ルキア」
名前を呼ばれ、彼女は半ば本能的に刀を抜く。
しかし、抜き身の刀は構えられる事もなく不自然な状態で彷徨う。
「あなたが白哉に教わった事は、敵を前に戦意を喪失させる事なの?」
その名を出され、ルキアはギュッと目を塞ぐ。
脳裏を過ぎるのは、何も知らず…幸せだった頃の事。
「初めまして。あなたが白哉の妹?」
優しい笑顔と共にかけられた問いかけに、頷く事でしか答えられなかった。
そんな自分を笑う事もなく、彼女はそう、と嬉しそうに微笑む。
「私は紅よ。あなたのお兄様とは親しくしていただいているの」
彼女の唇から紡がれる言葉に、驚いたのは事実。
兄である白哉からは彼女の事など一度も聞いた事はない。
ルキアは目の前の彼女が紡いだ「親しく」と言う部分を、ほんの少しばかり勘違いをしてしまった。
「紅…また来ていたのか」
不意に聞こえた、冷たいような、それでいてそれが当たり前と思える声。
声の方を向けば、予想通りの表情の白哉がそこに居た。
「寂しい事を言うのね。まるで来てはいけないみたいよ?」
「妻となった身で他の男の家に通い詰めるのは、褒められる事ではない。雪耶の品位を落としたいのか」
「わかっているわ、それくらい。でも、今日はあなたではなくルキアに会いに来たのよ」
冷たい物言いの白哉に臆する事もなく、彼女は柔らかい笑みを崩す事無くそう言った。
今の会話で何となくわかった事だけれど、どうやら彼女は結構な家の出身らしい。
「あ、あの…」
「あぁ、ごめんなさいね、捨て置いてしまって。どうかした?」
躊躇いながらのルキアの言葉に、紅は即座に答える。
これを尋ねてもいいのだろうか。
少し悩んだ所で、その場を動く者がいた。
もちろん紅でもなければルキアでもない。
残りの一人、白哉がどこかに向けて踵を返したのだ。
そんな彼の背中に向けて、紅はクスクスと笑う。
「ああ言う風に文句を言いに来るのに、必ず顔を出してくれるの。優しいわよね」
「紅殿…は、すでにご結婚されているのですか?」
ルキアの問いに紅は一瞬だけ目を見張り、それから少し照れたように頷いた。
もう照れるような年数でもないのだけれど、と言いつつも、彼女は少しだけ頬を赤く染める。
紅の返答を聞き、ルキアは自分がとんでもない勘違いをした事に気付いた。
何やら勝手に慌てているらしいルキアに、紅は彼女が何を思ったのかを悟る。
「変な誤解を与えてしまったわね。白哉とは、元婚約者候補と言う間柄だけよ」
安心して、と彼女は言った。
何を安心すればよいのかよくわからない上に、何だかとんでもない事を聞いた気がする。
ぽかんと目を見開く彼女に、紅は続ける。
「それだって、たった一度の見合いだけの話よ。私は…今の旦那様とのお付き合いもあったし」
今となっては、もう昔の話ね。
何かを思い出すような遠い目を見せる紅に、ルキアは何故か言葉を失った。
「雪耶様…おぉ、もう藍染様でしたな。あちらにお茶を用意してございます」
老人の声に紅はクスクスと笑い、それから「わかりました。ありがとう」と告げる。
彼は目元の皺を深めてから特に何を言うでもなく去って行った。
「ルキア、一緒にお茶をしましょう」
「え、あ…でも、私は…」
「大丈夫よ。お茶を用意するように命じたのは白哉でしょうから。きっと、あなたの分も用意されているわ」
そう言って、彼女はそれ以上躊躇わせる時間を取らず、ルキアの手を引く。
初めて触れた彼女は美しく、そして優しい人だった。
思い出が決心を鈍らせる。
元より、紅を斬る決心など、全く出来てはいないのだ。
掻き集めたなけなしのそれも、思い出の前には酷く弱弱しい。
ルキアの持つ刀の切っ先が震えていることに、紅は気付いてしまった。
「………興が冷めたわ」
ふ、と視線を外し、紅は己の刀を納める。
そしてルキアに背を向け、歩き出す彼女。
ルキアは慌てたようにその背中に向けて「紅殿」と必死の声を掛ける。
「兄様が相手だとしても、刀を抜くのですか!?」
「……白哉は私が相手でも躊躇ったりはしないわ。私も…きっと」
その時が来るのかはわからない。
けれど、その時が来たならば…紅が口にした事は、紛れもない現実となるだろう。
彼はルキアのように迷いも躊躇いも持たない。
だからこそ、自分も迷いなく刀を抜く事ができるだろう。
「何故敵であるならば、私をお斬りにならないのですか!?」
一際大きく声を荒らげるルキア。
紅はそれに対する答えを口にする事無く、そっと目を向ける。
視線が絡んだと思った時には、数メートルの距離はゼロになっていた。
思わず息を呑むルキアの額にトンと人差し指を当てる。
ぐわん、と世界が揺れた。
「少し眠りなさい」
穏やかな声が聞こえ、ルキアの意識は沈む。
偶然下にあった公園のベンチに、意識を手放したルキアを寝かせる。
何故ここまでしてやるのか、と少し自分の行動をおかしく思いながらも、紅は彼女から目を離さなかった。
「…ごめんね、ルキア。私と関わらなければよかったね」
彼女と話していると、本来の自分が顔を出しそうになる。
元々、紅は先日の対峙の際に見せたような冷たい性格が全てではない。
確かにその様な一面もあるけれど、穏やかな彼女が居ないわけでもないのだ。
敵として刀を向けられれば、表に出てくるのは前者だけ。
けれど、こうして信頼を崩せないルキアのような者を見ていると、どうしても後者が顔を出してしまう。
「次に会う時は、ちゃんと敵として対するわ」
その呟きを最後に、彼女の姿は掻き消える。
紅が消えて数秒後、ぱちりとルキアが目を開く。
「…私は…?」
何故このような所に―――そんな疑問が首を擡げ、次いで状況を思い出す。
勢いよく立ち上がったルキアは、そのまま地面を蹴って走り出した。
「急がねば…!」
ルキアの脳裏からは、紅と見えたと言う事実がすっかりと消えうせていた。
07.11.07