逃げ水

パキン、と何かが割れる音がした。
いや、何かが生み出される音と言った方が正しいのかもしれない。
眠っていた紅はゆっくりと目を開き、しかし暫くは身体を起こそうとしなかった。
どうやらまた一人、藍染の手によって新たな破面が生まれたようだ。

「また…崩玉が解放された、か…」

覚えのない霊圧は、その破面のものなのだろう。
コロリとシーツの中で転がると、紅は漸く身体を起こす事に決めた。
袖を通しただけの着物のあわせを正し、シーツの上に波打っていた帯を巻く。
そうして身形を整えた所で、紅は近づいてくる気配を悟った。
彼女が他者の干渉を嫌う事、また藍染にも似通う部分があることから、この宮には破面は足を踏み入れない。
いや、踏み入れられない、と言った方が正しいのだろう。
頂点である藍染の命令と、他でもない紅の霊圧の大きさによって。
その事実を考えれば、気配の主が誰なのかは、考えるまでも無い事。

「起きたのかい?」

部屋に入るなり、彼、藍染は穏やかに笑いかけながらそう言った。
彼が来る事と言うことが分かっていた紅は、ベッドに浅く腰掛けたまま彼を迎え入れる。

「また新しい破面を生み出したのね」
「あぁ。紅なら気付くと思っていたよ」

紅のすぐ脇まで歩いてきた彼は、スッと伸ばした手で彼女の頬を撫でる。
それに答えるように目を細める彼女を見ながら、彼は続けた。

「身体に不調がないなら、君も現世で遊んでくるといい」
「現世に?」
「ウルキオラに、前に話した指令を実行に移してもらうことになった」

指令、と言う言葉に、紅は閉じようとしていた瞼を開く。
それが何を意味するのかを、彼女はすでに聞いている。
いつもは胸の内も考えも話さない彼が、珍しくもその指令の内容だけは教えてくれたのだ。
恐らく、織姫に興味を示すことを良く思わない彼女の感情に配慮した結果だろう。

「遊んでいいの?」
「目くらましが目的だからね。ウルキオラと一緒に居るなら、それも止めない。紅の好きにすればいいよ」
「ここに残ると言う選択肢は?」

そう問いかけるが、彼からの答えはなかった。
その代わりに、その顔に浮かべられた笑みが少しだけ深くなる。

「…わかったわ。ウルキオラと一緒に行動するかは…向こうで決める」
「いい子だね」

そう言って頭を撫でたかと思えば、腰を折ってその頬に唇を落とす。
次いで唇にも同じく彼のそれが落とされ、紅は瞼を伏せた。
ぬくもりが離れるのにあわせてそれを開き、そのまま視線を絡め続ける事無く立ち上がる。
彼の眼差しが自分の背中を追って来ることに気付いたが、振り向きはしなかった。
その目から逃れるようにして隣の部屋へと移動し、手早く死覇装を身に纏う。
黒い死覇装の上から、対するように白い着衣を纏い、一息ついた。

「惣右介さんの考えは…私には分からない」

何故、こんなにも頻繁に現世に関わらせようとするのだろうか。
いや、現世ではない。
袂を分かった筈の、死神達と関わらせようとしているのだ。
すでに敵となっているはずの彼らと紅とを引き合わせ、向こうに躊躇いを持たせようとでもしているのか。

「教えて欲しいと思うけれど…」

言葉として伝えられた時、自分はそれを受け入れられるだろうか。
そんな疑問が彼女の脳内に浮かび上がる。
彼の言う事ならばすべてを受け入れる。
口で言ってしまうのも、頭でそう思うのも簡単だ。
しかし、それを実行に移すのは難しいもの。
自分の希望と、理性や本能と言うのは、必ずしも同じとは限らないから。
紅は短く溜め息を吐き出し、壁にある磨きぬかれた部分を見つめた。
そこに映っているのは、死覇装の上から白のそれを纏った自分。
死神であることを否定しつつも、それを脱ぎ捨てていない様は、何を表しているのだろう。
もう一度小さく息を吐き出すと、紅は藍染の待つ部屋へと足を向けた。
















その場に居たのは、ウルキオラ、グリムジョー、そして…何度か見た顔の―――確か、ヤミーと言ったか。
それに加えて、関わった記憶のない2人。
2人、と表現するのか、2体と表現すべきなのかは微妙な所だ。
紅には覚えのない内の1人が、彼女の存在に気付いた。

「あれ、今回は紅様も一緒なんだ」

陽気な声が耳に届き、紅はその破面ではなくウルキオラを見た。

「ウルキオラ、あれは?」
「グリムジョーの後任です」
「…あぁ、あなたが」

恐らく、名前はいつまで経っても覚えられないだろう。
何となくそう感じたが、あえて口に出す必要性は感じない。
紅の視線を受けたグリムジョーの後任である破面は、笑みを浮かべた。

「ルピだよ。よろしくね、紅様」

笑顔でそう言われたけれど、紅は何も返さなかった。
しかし、ルピの方もそれを気にした様子はない。
大方、他の誰かから紅のことを聞いていたのだろう。
彼女が関わる破面など、ごくごく一部でしかないのだ。
そのごくごく一部の破面に入っている一人、ウルキオラが静かに前へと進み出た。

「行くぞ」

語尾を丁寧にしなかったのは、紅に向けた言葉ではなかったから。
黒腔へと繋がるそこを潜っていく破面たちを見ながら、目を細める紅。
最後に残ったウルキオラはそれを追うつもりは無いようだ。
恐らく、直接彼女の元へと黒腔を繋ぐのだろう。



「あの娘は尸魂界に居るようね」

前に表示されているそれを見て、紅はそう呟いた。
現世を映すその中に、彼女のものと思しき表示はない。
それは、彼女の存在が現世には無いと言うことを示している。
即ち、死んだか…或いは、尸魂界にいるか。
そのどちらかなのだ。
紅は後者だろうと予測する。
頷いたウルキオラも、同じことを考えていたのだろう。

「グリムジョー達はそろそろ現世に着いたでしょうね。となると、尸魂界も動く」

当然、井上織姫も何らかの方法で現世へと戻ろうとするだろう。
尸魂界が保護と言う名目で彼女を拘束していない限りは。
彼女が現世に戻るには、穿界門を通らなければならない。
しかし、地獄蝶を持たぬ彼女はそれを通る事は出来ない。
尸魂界での生活の長い紅は、その現実を知っていた。
そして、それに対する尸魂界側の対応も。

「断壁固定の処置が終われば、断界を抜けて現世に向かう」

尸魂界内部の情報を得る事は難しいが、そこと現世とを繋ぐ断界となれば話は別だ。
断界に一歩足を踏み入れた時点から、彼女の存在はこちらからも感知出来るようになる。

「―――あぁ、来たわね」

まったく、予想通りの対応をしてくれる。
クスクスと笑い声を発する紅を横目に、ウルキオラは黒腔を断界へと繋いだ。
そして、すぐにそこに足を踏み入れる事無く彼女を振り向く。

「紅様はどうしますか?」
「私は向こうに。あの娘とはこちらで顔を合わせることになるわ」

必要以上に顔を合わせたいとは思わない。
本当ならば現世に行きたいとも思わないのだが…こればかりは、藍染からの申し出なのだ。
仕方がない、と溜め息を吐き出し、紅は黒腔の中へと消えた。

07.10.24