逃げ水

ジジ、と言う独特の音が耳に障る。
不愉快なその音を聞かないようにしながら、紅は座ったままで映像を見つめる藍染の元へと近づいた。

「また見ているの?」
「紅か」

まるで確認するように自分の名を紡ぐ彼に、「気付いていたくせに」と心中で苦笑する。
彼ほどの人ならば、近づいてきている、と言う段階で彼女の存在を知っていた筈だ。
尤も、それはあくまで紅が隠そうとしなければ、だけれど。
紅は、おいで、とばかりに差し出された手に己のそれを重ねるようにして近づいていく。

「実に面白い能力だと思わないか?」
「…そうね」

彼の目が弓なりに笑みを浮かべる。
その目が映す者が彼女であると言う事実が、紅の心に僅かな波を立てた。
戯れに絡めていただけの手を解けば、彼は僅かに反応しただけで、紅の方を向く事もない。
紅は彼の反応を気にも留めない様子で、自身の腕を彼の首筋に絡めた。
藍染はと言えば、チラリと彼女の方を一瞥した後は何も言わずに、彼女の好きなようにさせている。
そんな彼の横顔は、少しばかり楽しそうなものだったけれど。

「随分と苛立っているね」

何が原因かな?
分かっているに決まっているのに、彼はそう問いかける。
意地が悪い、と思う。

「わかっているでしょう?」
「…そうだね。紅の心は…まるで、手に取るように分かり易い」

彼はクスリと笑ってから、彼女の背を引き寄せる。
力の方向をずらす事無くそれに従えば、紅の身体はいとも簡単に彼の膝の上へと落ち着いた。
「紅」と低く名を紡がれる。
紅は真っ直ぐな彼の視線に一瞬目を彷徨わせるが、すぐに覚悟を決めたのだろう。
首に絡めた腕の所為で近くなっていた彼との距離を更に詰める。
その距離がゼロになると同時に、唇が重なった。
彼の指先の動き一つで緩んだ帯は、まるで紅の心のようだった。















素肌のまま白いシーツへと身を沈め、熱を帯びた吐息を吐き出す紅。
彼女の漆黒の髪を梳きながら、藍染は目を細める。
きっと、彼女は自分が居なくとも生きていける。
けれど、それは本来の彼女のままで、と言うわけではないだろう。
他の者には決して見せる事の無い、彼女の内面。
それを見る事が出来るのは自分だけだと言う優越感は、何物にも変えがたいものだった。

「落ち着いたかい?」

思ったよりも優しい声が出た事に、彼自身も心中で驚く。
まったく、彼女と関わっていると予想外の事ばかりだ。
猫のように髪を撫でられる心地よさに目を閉ざしていた紅は、ゆっくりとそれを開いた。
うつ伏せのまま、顔の角度すら動かさずに彼を見上げる。

「井上織姫をどうするの?」
「…井上?」

一旦髪を梳く手を止めて、そう問い返す。
そんな彼の答えに、紅は少しばかり苦笑を浮かべた。

「不思議な能力を持った、あの子よ」

どうやら、名前を覚えるほどに執着していたわけではないらしい。
そう説明をつければ、彼はあぁ、と思い出したように頷いた。

「あの能力は捨て難いものがある。近い内にこちら側に来てもらうことにするよ」
「…虚圏に乗り込ませる理由を与える事になるわ」
「尸魂界が人間の女一人のために動くと思うのかい?」

ク、と彼は喉で笑う。
すでに手の動きは再開されていて、それが独特の眠気を誘ってくる。
それを振り払うように一旦目を閉じ、暫くしてそれを開くのにあわせて唇を動かした。

「尸魂界が動かなくても…あの子は動くわ」
「…黒崎一護、かな」

確認と言うよりも、確信だっただろう。
彼の言葉にコクリと一度頷く。

「そうだね。彼は…理性的に動くのは得意ではなさそうだ」

恐らく、尸魂界は彼が動くのを止める。
しかし、彼はそれを聞きいれて考え直したりはしないだろう。
もしそれが出来るのならば、朽木ルキアを救うために乗り込んできたりはしなかったはずだ。
事実、あの数日間で彼は何度も死に掛けたのだから。

「…騒がしくなるわね」
「破面が勝手に動くだろう。紅が何かをする必要はない。君は、大人しくしていればいいよ」

そう告げるのと同時に、彼の唇が紅の瞼に触れる。
再び彼が離れていくのを眺めながら、彼女はゆっくりと口を開いた。

「話が変わるけれど…」
「ん?」
「グリムジョーの後には誰が?」

そう、紅はまだ彼の後に6の数字を持った破面を知らない。
別に興味が無かったと言えば、確かにそうなのだが。
ふと思い出してしまったために、こうして質問の形として唇から発せられただけの事。
藍染は紅の問いかけに目を細めた。

「答えても構わないが…恐らく、紅は名前を覚えていないな」
「…その程度の破面なのね」

それならば、彼の復帰も思ったよりも早くなるのだろう。
何を根拠にそう思ったのかは分からないが、ただ漠然とそんな考えが脳裏を過ぎる。

「紅」

不意に、紅の思考が引っ張られる。
引き寄せられたのは思考だけかと思いきや、柔らかく触れた彼の手が紅の顔を自分の方へと向けていた。
見下ろすように自身を映す彼の眼を見上げ、紅は沈黙する。

「悪いけれど、ここで他の男の名を紡ぐのはやめてくれるかな?」
「…惣右介さん?」
「どうも不愉快でならないようでね」

真っ直ぐに自分を見つめるその眼差しに、紅の内に潜む欲が鎌首を擡げる。
独占、と言う名の欲なのか、本能と言う名の欲なのか。
答えを導き出す必要は無く、ただ彼の強い眼差しにゾクリと背筋が粟立つ。
紅の反応を理解した上で、彼は薄く微笑んだ。

「他の女の事も、君が気にする必要は無い。少なくとも、ここでは」
「…不思議なものね。あんなにも…あの子を見つめるあなたの眼を、憎いと思ってしまったのに」

今は、同じ眼を愛しいと思ってしまう。
嫉妬と言う名の感情が胸を焦がすなど、考えられなかった。
これが、ありのままの自分の姿なのだろうか。
尸魂界に居た頃の彼は誰にでも同じように優しくあたたかい人だった。
だからこそ、こんな感情を抱いた事など無かったのだ。


虚圏に来てからの彼は変わった。
彼の強さや人格に陶酔する格下の破面など、何とも思わない。
だが…彼女は違う。
紅には得る事のできない特殊な能力を持ち、彼の興味を惹いてしまった。
いつの日か、彼の隣に自分の居場所がなくなるような、そんな声に出す事を躊躇われるような感情。
自分にこんな感情があったのだと言う事を、初めて理解した。
愛情と憎悪は紙一重―――誰かに聞かされた言葉も、今ならばわかる。

「あの子が虚圏に来ても、あなたの隣に私の居場所は在るの?」
「…おかしな事を言う。私が気に入ったのは、あの女の能力だけだ」

それ以上の感情など一切ない。
はっきりとそう告げられ、紅は柔らかく笑みを浮かべた。
安心した、と言う表情ではないけれど、彼の言葉を信じるという思いがこめられている。

「紅はもう少し自信を持った方がいい。私は君の手を離すつもりは無いよ」

降り注ぐ口付けを受け入れ、彼の肩に腕を回す。




こんな愚かで醜い感情など、知らずにいた方がよかったのかもしれない。
けれど、それを持ち合わせているという事は…私も結局は人だった、と言う事なのだろう。
彼の全てを自分のものにしたいとは言わないから、せめて。
今この瞬間の彼だけは、自分のものであるようにと。

「―――…愚かしい…」

呟いた声は、静かに空へと飛散した。

07.10.06