逃げ水
「ギン。少し、いい?」
市丸に当てられている部屋にやって来たのは、数時間前に虚夜宮に帰ってきた紅だ。
入り口の所にいる彼女に気付くと、彼は椅子から立ち上がろうとはせずに手を招く。
入って来い、と言う意味の行動に、紅は迷わず一歩足を踏み出した。
「もう体調はええん?」
彼が紅の体調を気遣うのは、先の霊圧の暴走の所為だろう。
藍染により完全に暴走する前に防がれたが、それが体調に影響している事を案じての言葉だ。
「…ええ。大丈夫」
「何が原因かは知らんけど、無理したらあかんよ。藍染隊長が心配しはるわ」
原因を知らないなんて、そんな筈はない。
目の前の彼が気付かないわけは無いだろう、と紅は心中で苦笑する。
良くも悪くも聡い彼の事だ。
事実を知らずとも、憶測だけで限りなく事実に近づいている筈。
そう思うけれど、あえて何も言わずに「わかっているわ」と答えた。
「そんならええわ。それより、どないしたん?僕の所を尋ねてくるなんて、珍しいやん」
「聞きたい事があって」
そう答えた彼女に、それこそ珍しい、と思う。
何かを尋ねるのは決まって藍染で、彼が居なければ東仙の所に向かうのが常だ。
東仙にいたっては彼女を大変気に入っていると言う事もあり、暫く会話を楽しむ事もしばしば。
あえて自分を選んだことが不思議だった。
「要の所に行こうと思ったんだけど…何だか、少し苛立っているみたいだったから」
「別れた時には平然としとったけど…そうなん?」
「彼の感情の揺れは分かりにくいからね」
気付かなくても無理はない、と笑う。
そんな些細な変化を汲み取ることの出来る彼女に感心の声を向けた。
そう言えば、彼女は昔から人の感情を読み取るのが上手かったな、と思い出す。
別に、彼女のようになりたいとは思わないけれど。
「グリムジョーが現世に降りたやろ。結果として、連れてった破面が全滅したからなぁ…その事ちゃう?」
「あぁ、そう言う事。まぁ、予想通りと言えばそれまでね」
「で、姫さんは何が聞きたいん?」
コロリと話題を戻した市丸に、紅は僅かに言葉を詰まらせる。
少しだけ言葉を悩んでから、ゆっくりと口を開いた。
「グリムジョーが随分…何て言うか…。
…不貞腐れたような拗ねたような…兎に角、不機嫌そうだから、その理由を聞こうと思って」
「…原因が分からんっちゅーことは、霊圧を感じてるだけなん?」
「そうなのよ。私、そう言うのに敏感だから…正直な所、少しだけ鬱陶しくて」
本音が出た。
市丸は思わず苦笑を浮かべる。
死神の中で生活しなくなって、彼女は随分と素を曝け出すようになっていた。
尸魂界で生活していた頃には「鬱陶しい」なんて、例え嘘でも言わなかっただろう。
「顔見に行けばわかるんちゃう?一目瞭然やで」
「…要するに、要と何かあったのね」
「聡い姫さんなら、見ればすぐわかるわ」
答える気はないらしい彼に、軽く肩を竦めてから踵を返す。
最後にありがとう、と声を掛けたところで、思い出したように彼が自分を呼んだ。
「怪我だけはしたらあかんよ?僕が藍染さんに怒られるんやし」
「気をつけるわ。…必要ないでしょうけれど」
そんな言葉と共に不敵な笑みを残し、紅はそこを後にした。
虚夜宮のとある一角。
出来れば来たくなかった、と思いつつも、これ以上不愉快なときを過ごすのはごめんだ。
派手に荒れた霊圧がビリビリと伝わってくるのを肌で感じ、紅は静かに溜め息を零す。
「見ればわかると言っていたけれど…なるほど。そう言う事なのね」
「!?」
聞こえないように呟く事もできたけれど、あえて中の人物に聞こえるような音量を発する。
彼を一目見て、現状を理解した。
不自然にはためく中身のない片袖を見れば、自ずと答えは出てくる。
「…何しにきやがった」
前よりも更に低い声を向けられてなお、紅は怯える様子もなく平然とその場に入っていく。
そうそう脆い物質ではないのだが、室内は瓦礫の山だ。
それらを横目に見ながら、紅は瓦礫の一つに腰掛けているグリムジョーに近づいた。
「いい加減にその不機嫌な霊圧を何とかしてもらえないものかと相談に来ただけよ」
「てめぇには関係ねぇだろうが」
「生憎あなたよりも霊圧に敏感でね。これ以上不愉快な思いはごめんだわ」
そう言ったところで、彼女は彼の前へとたどり着く。
座っている彼と立っている彼女では、普段の身長差が逆になる。
見上げるように睨み付けられるが、それでも表情を崩す事はない。
相手が引くつもりがないと悟ると、紅ははぁ、と溜め息を吐いた。
次の瞬間、今まで彼が座っていた場所を白銀の刀が通り過ぎる。
横一文字に刀を薙いだ彼女は、そのままの姿勢で後方へと飛んだグリムジョーを見た。
すんでの所で彼女の刀を逃れた彼は、その胸元に薄く赤い一文字の傷を残している。
完全に避ける事は出来なかったらしい。
尤も、紅自身は7割も実力を出してはいないけれど。
「幸い惣右介さんからの許可は下りている事だし…好きにさせてもらう」
要約すれば、霊圧を何とかするつもりがないなら片付ける。
予想以上の抜刀速度に、グリムジョーは避けたままの姿勢で目を見開いている。
後一瞬動くのが遅ければ、自分の身体は心臓辺りで二つに分断されていた。
それを理解するなり、彼の霊圧が跳ね上がる。
「てめぇ…っ!上等だ!!死んでも後悔すんなよ!!」
「その言葉、そっくりそのまま返しておくわ」
二人の距離の丁度真ん中で、その刀がぶつかり合った。
キン、と刀を鞘へと戻し、手頃な瓦礫に腰を下ろす。
それから先程よりも遥かに酷くなっている室内を見回し、苦笑した。
これだけ派手に暴れても崩れないこの宮は随分と頑丈なつくりらしい。
床も壁も刀傷や凹みなどでボロボロだけれど。
ぐるりと室内を一望してから、最後に少し離れた位置で一際大きなそれの上に倒れこんでいる彼を見る。
上がった息を整えかねているらしい彼の胸元が大きく上下しているのが見えた。
特にこれと言った外傷はないものの、紅自身も額から伝う汗を邪魔そうに拭う。
「――――…今日はここまでのようね」
「…るせぇ…っ」
凄むように睨み付けてくるけれど、動けないのは明白だ。
指一つ動かすのも億劫なんだろうな、と思いつつ、刀を腰に挿して立ち上がる。
「誰が後釜に入ったのかは知らないけれど、今の状況に甘んじているなんて…牙の折れた獣でもあるまいし」
「―――――」
「まぁ、片腕を欠いた状態でよく私に食らいついた…と褒めるべきかしらね」
そう言うと、紅は部屋の出口に向かって歩き出す。
そしてその部屋を出る直前に、先ほどの位置から動いていない彼を振り向いた。
「いいガス抜きになったでしょう?」
僅かに驚いたように視線を向けてくる事に気づいたけれど、紅は何も言わずにその場を立ち去った。
暫くはその後を追うように視線を向けていたグリムジョーだが、やがてゆっくりと目を閉じる。
自分を煽り、あえて逆上させて内に溜め込んだモノを発散させていたらしい。
一撃で仕留めてしまえば楽なものを、態々自分のためにそこまでする意味が見えない。
「…変な女だ」
あれほどに不機嫌だったその霊圧は、見る影もなく落ち着きを取り戻していた。
「お帰り」
「来ていたの?」
自分のベッドに腰を下ろすようにしてこちらを見ていた藍染。
彼の存在に気付くと、紅はやや驚いたように目を見開いた。
「つい先ほどね。それより…随分と派手に遊んでいたようだが、怪我は?」
「ないわ」
「嘘をつくならもう少し念を入れた方がいい」
「?」
彼の言葉に紅は訳がわからない、と言った風に首を傾げた。
どこにも怪我などしていない―――筈だ。
そう思いながら自身を見下ろすが、いつもと寸分違わぬ身体がそこにあるだけ。
「ここだよ」
そう言って彼の指が首の右側を拭う。
その際にピリッと小さな痛みを感じ、漸くそこに傷があることを認識した。
「気付いていなかったわ。避けたと思ったんだけど…」
最後の一撃が首の位置に向けられていた事は知っていたし、自分は避けたつもりだった。
「でも、流石に十刃と言うべきね。例え今は落ちているとしても」
「…紅が褒めるのは珍しいな。気に入ったのかい?」
「………そうね。腕が戻ればすぐにでも6に戻れるくらいの実力はあるでしょうね」
何かを含ませた彼女の言葉に、藍染はただ笑みを深めた。
07.09.01