逃げ水
「日番谷くん、早く早く!」
「そんなに急いで走ると―――」
「ぅわっぷ!」
日番谷の助言も空しく、走っていた雛森は前から歩いてきた死神にぶつかった。
前方不注意だったのは雛森の方だけらしく、尻餅をついたのは彼女。
「ごめんなさい。大丈夫だった?」
そう問いかけながら、腕に抱いた書類の束を片腕に持ち替える。
そして、空いた方の手を雛森へと差し出した。
「私の方こそ前をよく見てなくてぶつかっちゃって…!」
「いいえ、構わないわ。でも…前は注意しないと駄目よ?」
怪我をしたら大変だわ、と微笑む。
雛森は差し出された手を取った時に、初めて相手の顔を見た。
口調も声も空気も。
全てが酷く清純で、そして優しい。
「あ、あの…」
「雛森!」
声を失った雛森に追いついた日番谷がそう声を上げる。
立ち上がった彼女に怪我がないのを一瞬で確認してから、相手の女性へと向き直った。
「あなたは…」
「悪かったな。こいつが迷惑をかけた」
「十番隊の日番谷隊長とお見受けいたしますが、相違はありませんか?」
「ああ。あんたは――」
「紅さん!」
日番谷の声を遮るようにして、彼女の後ろからそう声が掛かる。
即座に振り向く紅と呼ばれた女性は、どうしたの、と短く問うた。
「斑目三席が呼んでます。副隊長が今日提出の書類を、その…」
語尾を濁す隊員に、日番谷は「斑目三席」の所属する隊と、その副隊長を思い出す。
そしてその人物がしっかりと脳内に浮かんだ所で「あぁ、何かやったんだな」と思った。
恐らくは面倒な事になった報告なのだろうけれど、紅は少し困ったように笑っただけ。
「書類ならすぐに直せるから…届け次第戻りますと伝えてもらえるかしら?」
「はい!すみません、本当に…!」
「構わないわ」
気をつけてね、と言う言葉は、即座に踵を返して走り出した隊員に届いただろうか。
それを見送ってから、彼女は身体ごと振り向く。
「どうやら急がなければならないようですので、ご挨拶はまたの機会にさせいただきますね。日番谷隊長」
「いや、別にいいぜ。それより、あんたは十一番隊なのか?」
「ええ。紅、とお呼びいただいて構いません。では、失礼します」
そう言って彼女は一礼をしてから二人を追い越して歩いていく。
それほどに速い速度ではなかったのに、何故か呼び止めることを忘れていた。
彼女の背中が完全に消えたところで、雛森が我に返る。
「あぁ!ど、どうしよう…!!あの人に謝ってないっ!!」
「雛森…お前なぁ…」
「そんなに呆れた目で見ないでよ!……それにしても…綺麗な人だったね。何だか、凄く優しそう」
まるで藍染隊長みたい、と彼女は目元を緩める。
そんな彼女に、日番谷は肩を竦めてから「そうだな」と頷いた。
その意見に対しては、反対はない。
四番隊の卯ノ花とよく似た雰囲気だったけれど、彼女は時折垣間見せる黒い部分が怖い。
彼女からそれを取り除いて清水を足せば、紅のようになるだろうか―――そんな事を考えた。
「今度謝りに行かないと…」
「気にしてないと思うぞ」
「でも、やっぱり駄目だよ!」
「十一番隊に行くつもりか?」
「う…。だ、大丈夫!阿散井くんを連れて行くもん!」
強面ばかり…と言えば少々語弊があるかもしれないけれど、五番隊より柄が悪いのは事実。
言葉を詰まらせてから、彼女は同期である阿散井の存在を思い出した。
相手の都合も何もなくはっきりと「連れて行く」と断言した彼女に溜め息を吐いてから、日番谷は静かに歩き出す。
「思い出した。確か…雪耶紅だったな。十一番隊の四席。主に事務系の腕で席官に登り詰めた奴だ」
「へぇ…そうなんだ。事務の腕前でって…凄いなぁ…」
感心しきった様子で息を吐きながら自分の後を付いてくる彼女。
気配でそれを捉えていた日番谷の横に、少し足を速めた雛森が追いついた。
「あぁ、お帰り。雛森くん」
執務室に入るなり、丁度良かったよ、とそんな声を掛けられる。
声の主は彼女の上司である藍染。
パッと表情を輝かせ、雛森は日番谷の腕を取って室内を足早に移動した。
「藍染隊長、日番谷くんが用事だって言うから、一緒に帰って来ちゃいました」
「構わないよ。急ぎかい?」
「いや、この書類を届けに来たついでに、前の話をしておこうと思っただけだ」
そう言ってファイルされたそれを差し出しつつ、話を続ける。
隊同士の話ならば、自分が口を出す事はない。
雛森は少しだけ距離を開けるように移動して、横目で藍染を見た。
と同時に、「あー!」と大声を上げる。
話をしていた二人が驚くのを横目に、彼女はパタパタと足音をさせて部屋を横切った。
「えっと…紅さん!どうして五番隊に?」
「こんにちは。雛森副隊長だったんですね。こちらには書類を届けに来たんです」
「あ、そっか。それより、さっきはすみませんでした!謝ってなかったから…」
どうやら、入り口の方からは藍染の陰になって見えなかったようだ。
指先で書類を数えていた紅の元へと駆け寄ると、雛森は深く頭を下げる。
「お互い怪我がなくて何よりです。気にしないでください」
「何の話だい?」
「秘密ですよ、藍染隊長」
日番谷と話をしていたはずの藍染が問うも、彼女は悪戯に微笑んでそう答える。
自分の失態を暴露されなかった雛森はどこか安心したようにほっと息を吐いた。
そんな彼女の方を向いて、彼は問いかける
「彼女と知り合いだったのかい?」
「いえ、さっき私が迷惑をかけてしまって…」
「そうか。じゃあ、改めて紹介しておこう」
そう言ってから、彼は書類の最終調整を行なっていた自分の隣に紅を呼び寄せる。
それから、笑顔で雛森と日番谷に告げた。
「彼女の名前は紅。十一番隊の四席で―――僕の妻だよ」
その言葉に面白いほどに身体を固める二人。
紅は彼らの反応にクスリと笑う。
数秒を置いて、先に声を上げたのは雛森の方だった。
「あ、藍染隊長…ご結婚されていたんですか!?」
「おや、話していなかったかな」
「初耳です!!」
「それはすまなかったね。結婚したのはもう随分前になるから、わざわざ話すことでもないが」
そんな彼の返答に、彼女はバッと日番谷の方を向いた。
知っていたの?とでも問うようなその視線の意味に気付くと、彼はゆるく首を振る。
「旧姓は雪耶か?」
「はい。藍染が二人だとややこしくなりますから、そちらを使う事も多いですけれど」
「あぁ、なるほどな」
だからか、と納得したように頷く。
隊長と四席なのだから、敬称さえつければ問題はないのだが―――場合によっては、確かに面倒だ。
こう言う考え方も間違ってはいないと思う。
「以後お見知りおきください。日番谷隊長、雛森副隊長」
「―――――…くそっ!」
ガツン、と拳をコンクリートに打ち付ける。
紅と初めて出会った時の事を思い出し、日番谷は眉を顰めた。
あんなにも優しく微笑んでいた彼女が、敵だと言うのか。
「雛森…」
彼女に何と伝えればいい?
あの日から、彼女は事あるごとに紅の名を口にし、まるで姉を慕うかのように接していた。
そんな彼女に、何と伝えればいいのだ。
「全部嘘だったって言うのかよ…」
それを受け入れてしまったら、この世の全てを疑わなければならないような気がする。
いや…全てを信じてはならない、と言うべきか。
「馬鹿野郎…!」
彼女を愛していたわけではない。
ただ、藍染の隣で笑う彼女が好きだったのだ。
そんな二人の空気は優しくて、あたたかくて―――とても、好きだった。
受け入れられない、受け入れたくない。
持て余す感情を押し留めるように、日番谷は目を閉じて空を仰ぐ。
07.08.22