逃げ水
大きく舌を打った日番谷がその場から消え去るのを見ていた紅は、無表情のままそこから姿を見せた。
彼の前から消えた彼女はそう遠くには離れておらず、気配を完全に消して建物の影に身を潜めたのだ。
「さぁ…これから、どう動くの?」
彼らと対面した今、事が終われば尸魂界に自分のことが伝わるだろう。
別にそれが困るというわけではない。
元々、困るならば彼らと顔を合わせる必要などなかったのだ。
完全に敵対した彼らがどう動くのか。
想像はたやすい事ではないけれど、そう難しすぎる事でもなかった。
恐らく、自尊心の高い日番谷の事だ。
紅の霊圧の全てを知ったわけではないのだから、彼は敗北を見たことを伝える事はしないだろう。
護廷十三隊に居た頃よりも霊圧が上がっていた―――その程度の報告に留まる筈だ。
それ以上の報告をする前に、自身の目でそれを確かめに来る。
「現世に来ている隊長が一人って言うのは、甘く見られているわね」
紅はポツリと呟いた。
察するに、そうそう現世にばかり隊長格を割くわけにはいかないと言うのが本音だろう。
その一人さえ自分の方へと向ければ、他の破面も動きが取りやすくなるはず。
「霊圧の名残を残したから、要が気づいてくれる筈だけれど…それまでに、何体もつかしら」
すでに衝突し合っている破面と死神の霊圧。
今は拮抗状態、もしくは破面がやや押している。
しかし、死神側は霊圧を限定されているのだから、それが解除されれば状況は大きく変わってくるだろう。
「最悪、残るのはグリムジョーだけ、か…」
死神に勝る実力を手に入れたと驕る奴らにはいい薬になるだろう―――その代償は自分達の命になるけれど。
冷静と言うよりは冷たい考えを脳裏に過ぎらせ、紅は道なき空を歩き出す。
「これはこれは。珍しい人に会っちゃいましたねぇ」
三歩目を踏み出した紅の背中にそんな暢気な声が掛かる。
そんな声に対しても特に驚きを見せず、彼女は半ばまで出した一歩を踏んだ。
「浦原…喜助」
「あら、覚えてくれてたんですか。光栄ですね」
「何の用?」
「用…そうですねぇ…」
そこで、彼の帽子の下に隠れていた目が、鋭さを帯びる。
その変化よりも早く、紅は足元を蹴って右側へと飛んだ。
今しがたまで彼女が立っていた位置を赤い斬撃が通り過ぎる。
「敵を斬るのに、用も何もないでしょ」
「…あなたみたいな柳のような人でも、自分が作った『物』の行く末は気になるのかしら?」
「さぁ、どうでしょう?それより、随分と冷たい笑い方をするようになりましたね。雪耶…いや、藍染紅サン」
見事な猫かぶりでしたね、すっかり騙されてましたよ。
刀を片手に、彼はその肩を竦めて見せた。
「…四楓院夜一…彼女は一緒ではないのね」
紅はふと周囲を見回してそう言った。
それから、最後に浦原へと視線を戻し、もう一度口を開く。
「彼女のお蔭で破面の一体が暫く使い物にならないわ」
「そりゃそうでしょうね。ボコボコでしたから」
「その割には、彼女の手足…随分傷めたんじゃないかしら。あれで中々硬い外皮を持っているでしょう?」
クスリと笑えば、喜助は軽く目を見開く。
それから帽子のつばを下げ「そんな表情も初めてだ」と苦く笑った。
「瀞霊廷でも有名なお二人でしたが…夫婦と言う関係を隠れ蓑にするとは。流石のあたしも騙されましたよ」
「…まるで、この関係が偽りの物だとでも言いたげな口ぶりね」
「おや、そう聞こえませんでしたか?それなりにはっきりと言ったつもりなんですがね」
「………あなたに何が分かるって言うの」
明らかな挑発に紅は眉を顰めてそう吐き出した。
そして、少しばかり悩むように手を止めてから、ゆっくりとそれを斬魄刀の柄へと添える。
その動作を目にした喜助は僅かながらに警戒の色を浮かべた。
そんな彼の反応に、先ほどの日番谷との一件を見られていたのだと悟る紅。
「紅さん、あなたは一体何を望んでいるんです?始めからそちら側を望んでいたわけじゃあないでしょう」
「…あなたと話をしに来たわけじゃないわ」
「けど、無言で立ち去る事はしない。そこがあなたの優しさなんですよ」
紅は掌で柄を握りながら沈黙する。
そんな彼女に追い討ちをかけるかのように、喜助は言葉を繋いだ。
「確かにあなたは本当の自分を隠していた。でも、全てを偽っていたわけじゃないでしょう」
「…やめて」
「やめませんよ。あなたはまだこちら側に戻る余地がある。本来の自分なんて、これから出していけばいいんですよ」
「やめてっ。あなたに私の何が分かるの!」
視線を逃がしていた紅は、そこで改めて喜助を睨むように見つめた。
そしていよいよ腕に力を込めて抜刀の姿勢を取る。
「我が手に集え、月下―――」
やや声を低く解号を唱える紅。
しかし、それを遮るように彼女の視界は白く染まる。
一瞬何が起こったのかを理解できず、紅は目を見開いて口を閉ざした。
白い壁の向こうに見える喜助が驚いたような、それでいてどこか諦めたような表情を見せている。
紅はそこに来て漸く、この白い壁が覚えのあるものであることに気付く。
前に一度だけ―――あの日、尸魂界から消える時に、体験したあれだ。
身体が重力を失うよりも早く、紅はトンと地面を蹴った。
「私に何を期待しているのか知らないけれど、私はあの人の元を離れるつもりなんてないわ」
それだけを言い残すと、紅は反膜の先に口を開いている黒腔へと飛び上がった。
彼女の姿が完全に消え去った所で、反膜も空へと飛散する。
それを見届けた喜助は帽子を被りなおしながら溜め息を吐き出した。
「反膜を使ってくるとは思いませんでしたよ。どうやら、よほど手放すのは嫌と見える」
独り言ではない音量でそう呟く。
その声に答えるように、影から一匹の黒猫が姿を見せた。
「そうじゃの。しかし…本性は中々強固な意志の持ち主らしい。
動揺こそ見せたが、結局こちらに引き戻すことは無理そうじゃ。どう見る、喜助?」
「解号は途中でしたから何とも言えませんが…始解だけでも、恐ろしい霊圧の変化ですよ。
あれを隠していたって言うんですから…相当、苦労したんじゃないですか?」
音もなく足元までやってきた黒猫、四楓院夜一を見下ろし、彼はそう肩を竦める。
破面の成長もそうだが、彼女の隠していた実力も予想以上だ。
その可能性があったからこそ、あえて彼女に揺さぶりをかけてこちらに引き戻そうと試みたのだが―――
「惨敗、ですねぇ」
「藍染があやつを手放さん以上、本人が望んだところで無駄じゃ」
諦めよ、と告げる彼女に、喜助は「そうですね」と答える。
見上げる先にはすでに亀裂の名残すらもなく、澄んだ夜空が見えるだけ。
「帰りましょうか、夜一さん」
一人と一匹が夜道へと消える。
ダンッと白い壁に拳をぶつける。
肩で息をしているのは、疲労から来る息切れなどではない。
壁に押し当てていない方の手を目元へと運び、ギュッと握りこむ。
呼吸を整えるように深いそれを何度も繰り返すうちに、近づいてくる気配を悟った。
「紅、落ち着くんだ。焦る必要はないよ」
ふわりと包まれる感覚に、紅は硬く閉ざしていた目をゆっくりと開く。
安心できる腕に包まれ、呼吸は自然と落ち着いていった。
「この想いだけは…ずっと変わらないのに…。何も知らないのに、どうして…っ」
「私が知っている。それだけで十分だろう?」
息が掛かるほどに近い距離で耳元に囁かれ、視界を彼の手が掠めたところで身体の力が抜ける。
藍染はぐたりと崩れ落ちるのにあわせて意識を沈めた彼女を難なく受け止めた。
すでに意識のない彼女を見下ろし、短く息を吐く。
「何や、えらい霊圧が揺れてましたけど…姫さん、どないしたん?」
「向こうで少し、ね。強制的に眠ってもらったよ」
「さよか。今ので下級の破面が百近く消えたみたいや。…それが姫さんの実力なん?」
末恐ろしいわぁ、と感情の篭らない声で紡ぐ市丸。
どこからともなく現れた彼にも動揺する事無く、藍染は紅を抱き上げた。
「恐らく、五割にも満たないだろう。大きすぎるが故に、紅自身も扱いかねている」
「へぇ…せやったら…」
「あぁ、そうだ。相手を傷つけない為に、己の全てを殺して過ごす事を決めた。それが尸魂界での紅だ」
優雅に、穏便に。
力を殆ど出す必要の無いように生活をするには、常に最前線に立つ事は出来なかった。
箸よりも重い物を持てないような雰囲気を纏うことで、それを疑う事すらさせないように。
「真実を知ったら…彼らはどうなるかな」
藍染が、彼女が自分と同じように本性を隠していると気付いたからこそ、彼女は今ここに居る。
それは偶然と必然が複雑に絡まりあって生まれた、一つの運命だったのかもしれない。
「敵やて認識させる為だけに現世に向かうなんて…お人好しな所は変わらへんな」
呆れた風で、それでごく自然の事を話すような口調で話す。
そんな彼の言葉に答えを返さずに、藍染は瞬歩を使ってその場を去った。
07.08.12