逃げ水

「どこに行くの?」

大きくはない声でそう背中を呼び止めれば、ビクリと肩が揺れる。
少し霊圧を隠しただけで、気付かなかったのだろうか。
誰にも見つかりたくはないのか、酷く警戒しているというのに、紅に気付いていないという矛盾。
それが、彼女と彼の実力の差だと言えた。

「…どこに行くの?」

この先にあるものと言えば、黒腔への入り口。
即ち、現世へと通じる場所だ。
何を考えているのか、分からない紅ではない。
あえて尋ねる声には、牽制とも取れる色が浮かんでいた。

「テメーに関係ねぇ」
「…そうね。関係ないわ」

ふぅ、と小さく息を吐き出し、彼、グリムジョーを追い越して歩いていく。
立ち止まる事を余儀なくされていた彼は、彼女の背中を見た。
そして、進行方向にあるのが現世へのそれしかない事を思い出す。

「おい?」
「別にあなたには関係ないのよ。ただ、丁度向こうに行こうと思っていた所に、あなたが居ただけの話だから」
「何だと…?」
「分かり易いように話したつもりだけど…。私も現世に行く所で、あなたに会ったのは偶然だと言っているの」

振り向く事もなく、背中でそう告げる。
そうしてどんどん先に進んでいく彼女を見て、グリムジョーは小さく舌を打った。
今更計画をなかったことには出来ない。
すでに、別ルートで他の破面達が現世に向かう準備をしているはずだ。
紅が自分を咎めなかった事は意外といえば意外。
しかし、自分にとっては悪くはない結果のはず。
そう思い込むようにして、彼もまた彼女を追うようにして先へと進む。
















トンと現世に降り立つ紅。
宙に浮いている状態なのだから、降り立ったと表現しても良いのかは悩むところだ。
足元にまるで透明の床があるかのようにそこに静止する紅の姿は、何も知らぬ者が見れば驚くことだろう。
尤も、何も知らない者には彼女の姿は見えないだろうけれど。
ふと顔を上げた紅は、覚えのある霊圧が増えている事を悟る。
その増えた霊圧の持ち主達こそが、彼女の目的であった。

「彼が来る前に終わらせないと、ね」

そう呟いて、ほんの少し…まるで自分の居場所を教えるかのように、霊圧を零す。
途端に、感じていた霊圧が警戒の色を濃くし、数秒後にはこちらへと向かってくる。
霊圧の名残を残している所を見ると、義骸を脱ぎ捨てて来ているらしい。
明らかに通常で考えられる速度ではない接近に、彼女は薄く笑みを浮かべる。
サァ、と彼女の髪を揺らす風が吹くのと、彼らが目の前に姿を見せるのは、ほぼ同時だった。

「お久しぶり、かしら」

信じられない物を見たような表情の彼らを前に、紅は穏やかに微笑んで見せた。
その微笑みと言えば、虚圏で見せるそれとは全く違うもの。
即ち、彼女にとっては偽りの、彼らにとっては今まで見てきた彼女の表情だった。

「雪耶…」

代表してというわけではないにせよ、一番に声を発することが出来たのは、天才と呼ばれた十番隊隊長。
彼、日番谷の言葉に、紅はゆっくりと首を振った。

「相変わらず、そちらの名前で呼んでくれるんですね、日番谷隊長」

そう笑った彼女はあの日のままだ。
死覇装の面々は、彼女に対して抜刀すべきかどうかを計りかねている。
その手は不自然に宙に浮いていたり、何とか柄にかかっていたりと様々。
そんな彼らを一瞥して、紅はもう一度日番谷に視線を戻す。

「…何でここにいる?藍染は…」
「あなたの言う『藍染』が惣右介さんを指すなら、居ない、になるわね」

常に浮かべている笑みが、どことなく冷たいそれへと変化する。
その変化は微々たるもので、彼らが気付いたかどうかは難しい所だ。

「紅殿!」

今まで沈黙していた彼らの中で、日番谷以外の人物が声を上げる。
覚えのある呼び名に、紅は目をそちらへと動かした。

「今すぐに帰りましょう!ちゃんと話せば、総隊長とて…!」
「止めろ、ルキア!」

一歩前へと進み出たルキアの肩を掴んで止めたのは阿散井だ。
彼は険しい表情のまま、何故、と言いたげに振り向く彼女を引きとめる。

「もう、無理だ」
「な、にを…何を言っておるのだ、恋次!」
「…お前だってわかってるだろ。紅さんは…向こう側だ」

冷静な声がルキアの耳に届く。
まるで冷たい短刀を突き立てられたようだと思った。
無言で視線を足元に落とした彼女に、ルキアだけではなく阿散井もまた沈黙する。
そんな彼らに短く目を向けてから、一角が口を開いた。

「…あんたは…本当に、そっち側なんだな?」

その声はすでに敵対する者へのそれだった。
けれども、目は否定の答えを待っているようにも思える。
こうして答えを求めている時点で、その考えがある事は否めない事実だろう。

「否定はしないわ。あの人がこちらに居る限り」
「…そうか。…男臭い十一番隊の中で席官の地位を保ち続けてた事…尊敬してたんだが…」

残念だ、と呟いた彼と同じように、その隣の弓親が瞼を伏せた。
元十一番隊の紅にとって、彼らは尸魂界の時の同僚だ。
ルキアとは一見繋がりが浅いように思える。
しかし、紅が生まれ育った雪耶家は朽木家ほどではないにせよ、それに続く貴族。
白哉を通じて出会い、以降ルキアは紅を姉のように慕っていた。

「…藍染が何の考えもなしに四席のお前を連れて行くとは思えねぇ。何を企んでいる?」
「さぁ。惣右介さんの考えは私にも分からないわ。あの人は何も話さない人だから」

だからこそ、自分で考えて動かなければならない。
時折指示を出される事はあるけれど、それも強制ではない。
自由を許されている自分だからこそ、己の頭で彼のために動かなければならないのだ。
それは簡単のようで難しい。
あっさりと答えた紅に対し、日番谷は眉間の皺を深めた。
それから、背中に負った刀に手を掛ける。
驚いたように「隊長!?」と声を上げる松本やルキアを横目に、彼は紅を見据えた。

「抵抗するなよ」
「しないと思うの?」
「四席のお前と俺じゃ、結果は見えてる。逃がしたりもしねぇ」

大人しく捕まれ、と言うことなのだろう。
確かに、常識で考えれば隊長の彼と元四席の紅とでは、その実力に埋められない差がある。
それに、この場には彼女よりも上の位を持つ者が、彼以外に三人も揃っている。
命を懸けた所で、逃げ切れる人数ではない。

「まぁ、逃げる必要はないわね」
「…どう言う事だ?」
「だって…あなた達の方が、動かざるを得なくなると思うわ」

クスリ、と紅が笑う。
それと同時に、彼らは複数の破面の気配に気付いた。
一体や二体ではない。

「あなた達はいいとして…彼らはどうなるかしらね」
「―――っ!散れ!!」

紅が言う『彼ら』は、霊圧を持ち合わせている人間の事を指す。
その答えに達したのだろう。
日番谷は舌を打ってから他の面々にそう指示を出す。
同時に彼らは四方へと四散した。

「あなたは行かなくてもいいの?」
「お前を捕らえてから向かう」
「そう。なら、ずっと行けないわね」

そう言った紅の姿が消える。
まさか見失うとは思わなかったのか、日番谷が目を見開いた。

「一つ。教えてあげるわ」

後ろから聞こえた声に、ゾクリと背筋が逆立つ。
隊長格の者が四席の者に背後を取られるなど、ありえない。
それなのに、彼女はいとも簡単に自分の背後を取った。

「あなた達が知る私は、偽りの姿よ。行動も笑顔も―――実力も」
「何…?」
「今日はここまで。じゃあね」

そう言って笑み一つを残し、彼女は瞬きの瞬間よりも短い間でそこから消えた。

07.07.31