逃げ水

白いシーツの上に斬魄刀を置き、死覇装の上に羽織った白い上着の前を開く。
無言のままにそれを脱ぎ捨ててベッド脇の椅子の背もたれに掛けると、シーツに腰を下ろした。

「随分と苛立っているようだね」
「…別に」
「…相変わらず嘘が下手だな、君は」

薄く浮かべた笑みを消さず、彼は椅子に深く腰掛けたまま紅を見つめる。
彼女はその視線に気付いたのか、前髪を掻き揚げながら足を進めて距離を詰めた。

「霊圧の名残もある。解放したのか」
「ほんの少しね。面白い術を使う子を見つけたから。尤も…あなたも知っているけれど。
詳しい事は、ウルキオラからの報告を待てば明らかになるでしょうから、今は省かせてもらうわ」

彼が見てきたものを『見る』方が、口で話すよりも確実。
そう思ったが故の言葉だったが、予想外な事に藍染はほんの少しばかり目を見開いている。
自分がそう言う事が、あまりにも珍しかっただろうか?
いつもの事だと思っていたのだが…と疑問符を浮かべる彼女に、彼は徐に口を開く。

「驚いたな。君が名前を呼ぶ破面が現れるとは思わなかった」

そう告げる彼に、あぁその事か、と納得する。
お人好しの仮面をつけていたと言っても過言ではない尸魂界での日常生活。
そんな中で相手の名前を呼ばない事は、失礼に当たる場合もある。
もちろん彼女は普通に他人の名を口にしていた。
一度仮面を外してしまえば、自分が気に入った者以外の名を口にする事はなかったけれど。
こんなに短期間で彼女がこうして名を紡ぐ破面が現れるとは…流石の藍染も、予想していなかった。

「彼…頭も悪くはないし、実力も…それなりにある」

強さに驕る、或いは強さしか取り得のない虚よりも、よっぽど好意的に見ることが出来るというものだ。
力だけで自分を過信している者ほど扱いにくいものはない。
藍染は紅の言葉になるほど、と頷いてから、音も立てずに椅子から立ち上がる。

「間もなくウルキオラが帰る頃だろう」
「他の破面は?」
「すでに集めてある。紅もおいで」

そう言われて、紅は促されるままに彼の手を取った。
破面の集りに紅が参加するのは、5回に3度ほど。
毎回参加しても構わないが、執拗な殺気を向けることにばかり集中してしまう破面がいる為に、控えている。
死神そのものが彼らにとっては敵なのだ。
本心から受け入れろという方が無理のある話。
更に言うならば、本来の霊圧を隠して本当に微弱なそれしか表に出していない紅は余計に酷い。

「あぁ、それから…」

入り口の所まで歩いた彼は、思い出したように振り向いた。
そして、数歩分を置いてついてきている彼女を見る。

「斬魄刀を持って来るといい」
「え…」
「そろそろ、君の位置もはっきりさせるべきだろう」

入り口の壁に凭れてそう答えた彼に、紅は視線を動かしてシーツの上に置いたままのそれを見る。
ゆっくりした足取りでそれの元まで近づくと、片腕を伸ばして掌に鞘を取った。
真剣の重みが腕に伝わる。
微弱な死神が、一人前に斬魄刀を提げている。
そう思われるのが鬱陶しく、今までは何かの集まりがあっても自分の斬魄刀を持つ事はなかった。
手放していると言う慣れない焦燥感は否めない物であったけれど。
紅は無言のままにそれを見下ろす。
やがて、それを腰へと挿し、そして藍染の元へと歩いた。
















「さあ、成果を聞かせてくれ。我等二十の同胞の前で――」

藍染の言葉を皮切りに、ウルキオラは自身の見てきたものをそのまま報告として差し出す。
シャン、と握りつぶされたそれの破片が、閉ざした瞼の裏にまるで目の前の事のように浮かぶ。
ガタイの良い男の負傷、女…井上織姫の能力、黒い斬魄刀の死神、下駄の男に褐色の肌の女。
彼らの行動を微温い、と声を上げるグリムジョーとウルキオラの会話。
それらを頭の片隅で聞きながら、紅は別のことを考えていた。
集中していないわけではないにせよ、自分に話題を振られれば答えられる程度に意識は残してある。
紅には順に浮かんでくる人物全てに覚えがあり、あの後でこの二人が来たのか…と思う。
懐かしい顔ぶれだけれど、会いたいと思うような間柄ではない。
どちらかと言えば、親しくはなかったはずだ。
廊下ですれ違った際に、二・三言葉を交わしたことがある―――精々その程度だろう。

「さて…。最後にもう一つ」

例の死神が敵対するようであればウルキオラが始末する。
そう話がついたところで、藍染が改めて声を上げた。
もう終わりだろうと浮き足立たせたそれを床へと固着し、彼へと向き直る面々。

「紅」

短く呼ばれ、紅は目を伏せつつ一歩前へと進み出た。
彼の腰掛ける座の斜め後ろに立っていた彼女の姿が、この場に集う二十数名の視界に入る。

「霊圧を抑えなくていい」
「………………」
「心配する必要はないよ。少なくとも…この場に居る者が消滅する事はないだろう」

破面の中でも、選りすぐりの面子なのだ。
彼女が霊圧を解放した程度で消滅するようであれば、この場に立つ権利はない。
藍染の言葉に一度目を閉じ、次に開く瞼に合わせて霊圧の蓋を解く。
その場に居た破面を、重力が増したかのような、そんな上から抑え付けられる様な感覚を襲った。
図らずも頭を垂れるように僅かに腰を折る者、床に片膝を着く者。
平然としているけれど、表情に明らかな緊張が見られる者、汗を流す者。
反応は実力によりいくつかに分かれていたけれど、その多くが驚愕に満ちている事だけは確かだった。
「もういい」と言う藍染の言葉に、紅は僅かに開いた栓を閉ざす。

「そろそろ、彼女にも動いてもらう事になる。だからこそ、君達には知っていてもらわなければならない。
彼女がこの場に居るのは、私の気紛れでは無いと言う事…彼女が、君達よりも強いと言う事を」

分かってもらえたかな、と穏やかな声で紡ぐ。
しかし、目元が笑っていないと感じるのは、気のせいではないだろう。

「紅。これからは要を怒らせない程度に好きにして構わない。邪魔になるようなら…」

邪魔になれば排除しても構わないが、限度は弁えろ。
要するにそう言う事だな、と紅は頷いた。
彼女自身も、出会う破面を全て斬り伏せるつもりなどないのだから、素直に頷ける。
尤も、東仙ならば紅に絡んだ破面を始末したとしても、それは当然のことと受け流すだろう。
その程度は紅を気に入っている。
藍染の言葉に顔色を悪くしている破面はごく一部だった。
どれも顔には見覚えのある者で、一度や二度は自分に何かしらの行動を起こした者達だ。
今更過去の事を蒸し返すつもりなどないのだが、彼女の心中は分かる筈もない。
あれほどに、自分を弱い者として見下し、嘲笑って来たと言うのに。
位置関係と言うのは、案外簡単に崩れるものなのだと痛感する。
これから彼らは自分に怯えるようになるのだろうなと思うと、どこか滑稽だった。












「いよいよ姫さんも動くんやね」

慣れた重みを腰に挿しながら廊下を歩いていた。
不意に掛けられた声に、紅はその歩みを止める。

「ギン」
「もう身体はええの?」
「…慣れていなかっただけだから」

そう答えてから、紅はきょろ、と周囲を見回す。
先ほど市丸を見た時には、確か東仙も一緒だった筈だが…その姿がない。

「要は?」
「あぁ、あいつなら…」

くい、と親指を指した方向から、東仙が姿を見せた。
紅と市丸が二人で居る事に気付いた…いや、もっと早くに気付いていただろう。
彼は迷いなく二人の方へと足を進めてくる。

「もう大丈夫なのか?」
「ギンと同じ事を聞くのね。それなりに慣れたから、平気よ」
「…まだ少し霊圧の流れに乱れがある」
「あぁ、それはさっきの解放も関係していると思うわ。尤も、まだ本調子ではないけれど」

そう答えるのと一緒に、東仙の手が紅の頭を撫でていく。
どこか妹を扱うような仕草に、紅は苦笑いにも似たそれを浮かべた。
前に理由を聞いた時には、紅の空気が友人と似ている時があるのだと…そう言っていた。
今がその時なのかもしれない。
自分ではよくわからないけれど。

「しかし…姫さんも、大分変わったなぁ。何や寂しいわ」
「変わったんじゃなくてこっちが素なのよ」
「大和撫子みたいやった姫さんが懐かしいわ」

思い出すように天井を仰ぐ彼。

「姫さんは…何が望みなん?」
「…ただ、傍にいたいだけ」

彼女の望みは、それ以上でも以下でもない。
踵を返す細い背中を見つめ、市丸は目を細めた。

07.07.26