逃げ水
「開きます」
そう言ったウルキオラに答える事無く、また彼も返事を求めようとはせず。
間を置く事無く彼は現世へのそれを開く。
彼が一番にそこを通り、次いでヤミー。
そして、最後に紅が続いた。
「変わらないわ、ここも」
大きく窪んだそこに降り立った紅は、特に感情を乗せない声でそう呟いた。
それにしても、と彼女は周囲を見回す。
「もう少し静かに降り立つ事は出来なかったのかしらね」
肩を竦めるようにしてそう言えば、ヤミーの視線が彼女へと向けられた。
そして、少し距離を置いている彼女には小さく聞こえない程度に舌を打つ。
「ちっ。あいつが一緒なんて聞いてねぇぜ」
つい先日彼女に完膚なきまでに叩き伏せられた事を忘れるはずもない。
表情を歪めつつそう言った彼に、ウルキオラが一瞥をくれる。
「ヤミー」
「…っ。わかってるっての。紅サマ、だろ?」
態度を改めろ、と言う視線を向けるウルキオラに、ヤミーは一瞬息を呑んでからそう答える。
「別に構わないわよ、ウルキオラ。呼び名くらい、好きにさせればいい」
彼女の言葉に、ヤミーは驚いたように振り向いた。
いつの間に近くに来ていたのか。
気配が近づく事にすら気付かなかった自分に、改めて心中で舌を打つ。
悔しいが、彼女との実力の差は歴然で、それを認めないわけにはいかない。
「紅様」
「いいのよ。私は破面を従えたいわけじゃない。邪魔さえしなければ、それでいいわ」
「…だそうだ」
元々個々の独立意識の強い連中だ。
それを纏めようとする方が面倒だと言う事を、紅はよくわかっている。
だからこそ、不必要に己の手の内を明かさずに静かに過ごしているのだ。
己に従わずとも、藍染と言う象徴に従っていれば、それでいい。
紅の言葉にウルキオラは彼女からヤミーへと視線を動かす。
「は!ありがてぇこった」
そう答えながらさっさとクレーターを抜け出していく彼を一瞥し、紅は口を開いた。
「ウルキオラ。例の死神を殺すか殺さないかは、あなたに任せるわ」
「はい」
ヤミーを追うようにしてクレーターを出て行く彼の背中を眺めながら、軽く肩を竦める紅。
自分はどうしようか、などと考えているうちに、無数の魂魄が四方八方からこちらに引き寄せられてくるのを感じた。
夥しい量のそれに、紅の眉間に皺が刻まれる。
「派手な動きは死神の到着を早めるだけなのに…」
そう呟き、彼女もまた彼らを追うように歩き出す。
最後の一つがヤミーに吸い込まれた。
其処此処に崩れ落ちた人間が溢れている。
恐らく、ここまでの道にも山ほど魂魄を抜かれた人間が転がっているのだろう。
それらを一望してから、紅はふと近づいてくる気配に気付いた。
「これは…」
覚えのある霊圧だ。
特に気にするほど大きなものではないけれど、特殊なそれには覚えがある。
そう、あの時、死神代行の彼と共にやってきた、旅禍の霊圧だ。
「死神を待たずに向かって来るなんて…愚かな事を」
少なくとも、あの旅禍の面子の中で破面に対抗できる可能性があるのはただ一人。
その一人こそ、今回の任務の対象者だ。
それ以外はとてもではないが、破面をどうにか出来るものではない。
やがてその場に到着した男女の二人組みが、ヤミーの標的となる。
ガタイの良い男が地面へと崩れ、彼は次にその標的を女の方へと動かした。
「この女もゴミか?」
そう問われたウルキオラは女のそれを探る。
そして、瞼を閉じて答えた。
「ああ、ゴミだ」
血に塗れた男を、女の特殊な能力が癒す。
いや、『癒す』と言う言葉とは少し違うのかもしれない。
二度ほど目にしたその能力に、紅は目を細めた。
「待って」
その時になって、初めて紅がそう止めた。
その声が届いたのか、一度は動きを止めるヤミーだが、それも数秒もない間の事。
すぐに女との距離を詰めるよう動きを再開する彼に、紅は冷めた目を向ける。
「私は…頼んだ覚えはないわよ」
ザワリと彼女の霊圧が溢れる。
その一部でしか無いと言うのに、その場の大気すらも振るわせるそれ。
庇うように負傷した男の前に立っていた女が、膝から崩れ落ちた。
それに遅れること1秒、それを向けられたヤミーもまたその場に膝を着く。
臆する事もなく立っているように見えるウルキオラでさえも、首筋に汗を伝わせていた。
「…あなた。いつからこの術を?」
動けないヤミーの傍らを通り抜け、その場に完全に座り込んでしまっている女の前に立つ紅。
そう問いかけるが、返って来るのは言葉にならない音ばかり。
その瞳孔が開き、汗が噴出していることに気付いた紅は、漸くその原因を思い出す。
「あぁ、ごめんなさいね。忘れていたわ」
そう紡ぐと同時に彼女の霊圧が極限まで抑えられる。
まるで息の限界で水面に顔を出したかのように、苦しげな呼吸を繰り返す彼女。
紅は彼女のそれが治まるのを待ち、もう一度同じ質問を繰り返す。
「いつからこの術を?」
「…な、夏の………初めに…」
「……ふた月程度ね」
自身の中で整理するようにそう呟き、紅はクルリと踵を返す。
そうして歩き出し、再び元の位置へと戻ろうとした。
「…もう、いいのかよ」
「いいわよ。好きにして」
彼女よりはいくらか回復の早かったらしいヤミーの言葉に答えつつも足を止める事はない。
そうして彼の脇をすり抜けた後、向けられるウルキオラの視線に自身のそれを向けた。
「何か気になることでも?」
「…ええ。あなたが考えている程度の事―――」
「……どう、して…」
紅の声を遮る意図があったわけではないだろう。
弱弱しく紡がれた言葉に、紅はウルキオラに背を向ける形で彼女を振り向いた。
今更に思い出したが、彼女は井上織姫…確か、そう呼ばれていたはずだ。
「どうして、こんな事が出来るの…?皆、あなたの事…信じているのに…っ」
言葉を聞く限り、彼女の方も、どうやら紅に見覚えがあるらしい。
途切れながらもそう問いかける彼女。
「殺しますか?」
そう問いつつ、ウルキオラは己の片腕を持ち上げる。
紅は彼の行動を横目に捉え、緩やかに首を振った。
「…必要はないわ」
彼女はそう答えてから、ヤミーへと目を向ける。
彼女の言わんとしていることを悟ったのか、彼は身体ごと織姫を振り向いた。
そして、グンと勢いよく手を伸ばす―――
「信じている、か…」
そう呟き、嘲るような笑みを零す。
皆、と言うのは十中八九死神のことだろう。
彼らとは随分長い付き合いだった。
しかし―――本当の紅と言う人間を知らずに、彼らは何を信じているというのだろうか。
「何も知らず上辺だけを見ていた者が信じているなど…片腹痛い」
「紅様?」
飛び込んできた死神とヤミーとの一戦に背を向けた彼女。
そんな彼女の行動に疑問を抱くウルキオラに「帰る」と一言告げ、紅は指先を空間に当てて門を開く。
「あれが殺されない程度に退いた方がいいわよ」
片腕を落とされ、数箇所を斬り付けられた状態で頭に血を上らせているヤミーを指して言う。
それから、紅は黒腔へと身体を滑り込ませた。
覚えのある霊圧が二つ、その場に到着するのを背中で感じ取ると同時に、空間の亀裂が口を閉ざす。
「偽りの自分の居場所など…必要ない」
紅は、明らかに自分の居場所を教えるように放たれている霊圧の方へと移動しながら小さく呟いた。
やがて黒腔が終わり、虚圏へと繋がる。
「お帰り、紅」
居場所なんて、一つでいい。
07.07.25