逃げ水

カツン、と紅の靴が音を立てる。
白い床の上を歩く彼女の足音だけが響くその場で、彼女は己の霊圧を少しだけ解放する。
下級の破面でも呼吸を乱す程度のそれだが、「彼」に己の存在を知らせるには十分すぎるほどだ。
その証拠に、紅の目で確認できる位置にある扉が音もなく口を開いた。
迷いなく、紅はその中へと足を踏み入れていく。

「調子はどうだい?」
「随分慣れたわ」

もう大丈夫、と答えれば、藍染は満足げに頷く。
そして、肘掛に肘をついたままもう片方の手を招いて彼女を呼び寄せる。
紅は抵抗の意思もなく、彼の元へと歩み寄った。

「ウルキオラを現世に送る予定だ」
「…ウルキオラ…?」
「知らなくても無理はない。顔を合わせていないはずだからね」
「そう」

彼の言葉を聞くなり、紅は思い出そうとする事をやめた。
無意味なことを必要以上に続けるつもりはない。
藍染に目線で促され、彼に一番近い席に腰を下ろす。
いつの間にか傍に来た女性の破面が、恭しく頭を下げながら湯気立つカップを彼女の前へと置いた。
足音もなく下がっていく彼女を一瞥して、紅は藍染へと向き直る。

「それで、その破面がどうかした?」
「あぁ、そうだな。君も現世に行くかい?」
「…行く理由があるかしら」
「あえて言うならば、暇つぶし…かな」

特に理由はないよ、と彼は薄く笑った。
こう言う表情に覚えがある。
強制しているわけではないけれども、どちらかと言えば是の方へと事を運ぼうとしている時のそれだ。
この表情を見せる時はそう多くはない。
本気で拒否すれば受け入れられるだろうけれど、紅はいつも彼の意向に沿うように返事をする。

「現世に何をしに行くの?」
「黒崎一護と言う人間を覚えているかい?」
「…確か、旅禍の名前がそれだったかしら」

あまり興味がなかったからはっきりと覚えていないけれど。
そう答える彼女に、藍染は変わらないなと思う。
興味のない事に関しては、必要以上に知識を深めようとはしない。
外面を作っている時にはちゃんとその事柄に関しても覚えているのだから、これはある種の才だろう。
知識を記憶の奥へと沈ませ、必要な時には簡単に呼び起こす事ができる―――そんな、才能だ。
誰でも持っているものではあるけれど、彼女ほどに顕著な人もそう居ないだろう。

「すでに現世に戻っているだろうからね」
「…殺すの?」
「惜しいのか?」
「別に。ただ…勿体無い霊圧の持ち主だとは思うわ。………人間にしては、だけど」

紅自身は旅禍どころではなかったのであまり彼と言う人間をよく覚えていない。
ただ…馬鹿みたいに霊圧を垂れ流している人だった、と言う事は覚えている。
その絶対量が普通よりも遥かに抜きん出ている事も。

「殺す殺さないはウルキオラに任せるとしよう。もちろん…紅、君が判断してもいい」
「…分かったわ」
「出立は半刻後だ。ウルキオラは…行けばわかるだろう。恐らくヤミーも一緒だろう。ヤミーは知っているな?」
「…確か、三日前に伸したばかりね」

十刃の名前程度は頭の中に残してある。
ヤミーと言う名を引きずり出し、記憶の中の顔と一致させた紅は静かにそう答えた。
彼女の言葉に藍染は僅かに肩を竦める。

「あの時の霊圧の乱れはそれか」
「廊下を塞いでいたから邪魔と言っただけなんだけど…あの破面はあまり知能が高くないわ」
「紅が満足するような破面の方が少ないだろう?あぁ、でも…ウルキオラはいい所までいくかもしれないな」

そう言った藍染に、紅は僅かに驚いた様子を見せた。
彼がそう言うという事は、少なくともある程度は認められている存在だという事だ。
少しだけ、彼と言う存在に興味が湧いた。

「それは楽しみね」

ふ、と口角を持ち上げながらそう呟き、がたりと席を立つ。
そのまま立ち去ろうとする彼女の背中に、藍染がその名を呼んで声を掛ける。
振り向いた紅は何も言わず彼の言葉の続きを待った。

「怪我をしてはいけないよ。死神が出てきたら、すぐに帰って来るんだ」
「…ええ。彼らとは…私も、会いたくないわ」

それだけを答えると、紅はそのまま部屋を出て行く。
一口も手をつけられなかったカップから上る湯気を眺めながら、藍染は目を細めた。














白い着衣の胸元を緩め、息を吐き出す。
これから破面と共に現世に行くと思うと、どうにも気分が落ちた。
虚圏での自分の位置は酷く曖昧だ。
理解しているならばそれを解決すれば良いのだが…彼女はそれをしようとはしない。
紅の実力も知らずに絡んでくる破面を時にかわし、時に実力を持ってねじ伏せている。
何故そうしているのかは、彼女自身にもよくわからなかった。

「紅様」

不意に、紅は霊圧を隠そうともせずに近づいてきた破面に名を呼ばれる。
東仙や市丸のように苗字で呼ぶことが出来ない以上、名を呼ばれるのは当然の事だ。
これに関しては彼女も慣れていて、抵抗などはない。
振り向いた先に居たのは、知らない破面だった。

「誰?」
「破面No.4、ウルキオラ・シファー」
「あぁ、あなたが…」

納得したように二度ほど頷いてから、紅は身体ごと彼を振り向く。
紅に声を掛ける破面と言えば、殺す或いは痛めつける事を目的としている奴ばかりだった。
だからこそ、こうして初めから殺気を持たない破面は珍しく、それがより紅の興味を沸き立たせる。

「面白いわね。元死神の私が鬱陶しくないの?」
「…藍染様の選んだ方ですから。それに…隠しているとは言え、その霊圧は相当のもの」
「………ふぅん…。頭の切れる男は嫌いじゃないわ」

紅の脳裏で情報が整理されていく。
つまり、彼…ウルキオラにとっては、藍染が絶対だという事だ。
彼が虚夜宮に連れて来た紅が、不必要な存在である筈がない。
その上で霊圧を探り、真実に気づいたという事だろう。
見た目と上辺の弱さによって誤魔化されてきた他の破面とは、明らかに違っていた。

「惣右介さんが信頼している理由が少しだけ分かったわ」
「…今回の任務には、十刃の一人が共に現世に向かう事になります」
「聞いているわ。すぐに向かうでしょう?」
「はい。こちらです」

促すように歩き出した彼に続き、紅は足を進める。
腰に揺れた斬魄刀を見下ろし、僅かに笑みを浮かべた。

「少しは楽しい生活になりそうね、『月下竜王』」

柄の先を指先で撫で、彼女はそう呟いた。

07.07.24