逃げ水
霊圧の低い者ならば、見下ろす双眸の鋭さだけで意識を飛ばしてしまうだろう。
目の前の男…いや、この場合は破面と言ったほうが正しいか。
兎に角、その破面は溢れんばかりの霊圧を抑えることすらせず、明らかな挑発をもって紅の前に居た。
「死神がこんな所で何してんだよ」
浅葱色の髪がふわりと揺れる様を眺めながら、低い声に鼓膜を震わせる。
どうしようか、とまるで悩んでいるようには見えない表情で、紅は考えた。
特別に声を掛けられて呼ばれているわけではないけれど、そろそろ彼の元に向かう時間だ。
しかし、目の前の破面が退いてくれない事には、彼の待つ部屋に向かう事ができない。
恐らく破面からすれば、死神である彼女がこの『虚夜宮』に居る事自体が気に入らないのだろう。
紅には市丸や東仙のように、明確な地位がないと言う事も、それを助長している。
こうして絡まれることも珍しくはないけれど…大虚以上の破面に絡まれるのは初めてのことだ。
「聞いてんのか?」
「答える義務はないわ。私は、あなたではなくその先に用があるの」
紅がそう答えるなり、壁にビシッと亀裂が走る。
どうやら、彼女の回答は彼のお気に召さなかったらしい。
僅かに揺れた霊圧がその亀裂を生み出したのだろう。
「…この先には藍染様の自宮くらいしかねぇだろうが」
「ええ、そうね。そこに用があるから」
彼を相手にしている時間すら惜しいという表情で、彼女は静かにそう答える。
その一つ一つが彼の癇に障るのだろう。
明らかに眉間の皺が深まるのを見て、心中で溜め息を零す紅。
恐らく、藍染は紅がここに居る事も、部屋に向かう事ができないことも知っている。
抑えてあるのか、あからさまに感じるほど強い霊圧ではない。
けれど、確かにそこにある…紅からすれば、空気にも似て非なる彼の霊圧を常に感じていた。
急かしているわけではないだろうけれど、そう感じてしまう。
「退い―――」
退いて、と言う言葉は不完全なままに紅の喉へと飲み込まれた。
代わりに、首を絞められる感覚に僅かに眉を顰める。
「…どうしても邪魔をするのね…」
「その澄ました顔が気に入らねぇな。死神がうろつくんじゃねぇよ!」
「………そう。それなら―――」
退いてもらうわ。
その言葉と共に、建物そのものが軋むような霊圧が落ちる。
一瞬解放されたそれは、次の瞬間には目の前で紅の首を掴んでいる破面一身へと降り注いだ。
上から見えない力で押さえつけられているかのような、強い霊圧に彼の体中から汗が噴出す。
紅の首を掴んでいた手の力が緩むのとほぼ同時に、彼は床へと膝を着いた。
「相手の実力を見誤るなんて…浅はかね」
背中を半分ほど覆う黒髪がサラリと流れる。
それを後ろへと払い、紅は膝を着いて肩で息をする彼を見下ろした。
「好戦的な人は嫌いじゃないけれど…邪魔をされるのは、好きじゃないの」
降りかかる火の粉を払う程度の力は十分に持ち合わせている。
ただ、それを迷いなく使うか、ここぞと言う時の為に隠しておくかの違いだ。
もちろん、紅は後者に該当する。
ス、と彼女の利き腕が音もなく持ち上げられていき、そこに霊力が集ってくる。
「紅」
ピタリと。
まるで水道の蛇口を閉ざしたように、今の今まで降りかかっていた霊圧が消え去る。
その名を呼んだ人物は、瞬き一度の間に彼女の傍らへと立ち、持ち上げていた腕を掴んでいた。
「見逃してやってくれないか」
「…」
彼へと視線を動かしてから、了承の代わりに手に纏った霊力を消す。
それを確認してから、彼…藍染は彼女の腕を放した。
「先に行って、何か温かいものでも用意していてくれ」
そう言われると、紅はやれやれとばかりに肩を竦めてから、瞬歩でその場を去る。
初めからこうすれば良かったのだが…紅は建物の中で瞬歩を使うのはあまり好きではない。
「…随分と酷く中てられたらしいね、グリムジョー」
未だ四肢の動きが正常を取り戻していないのだろう。
膝を着いたまま立ち上がろうとしない彼に、藍染は薄く笑った。
「今回は許そう。だが………次はない」
そう言い残すと、彼はあえて瞬歩を使わずに自宮へと歩いていく。
一人残されたグリムジョーは、ガンッと壁を殴りつけた。
「クソッ!あの女…なんて霊圧を隠してやがる…っ」
常に藍染の傍に居ながら、市丸や東仙よりも後ろに控えていた彼女。
恐らくは尸魂界での部下として連れて来たのだろう、とその程度だと思っていたのだ。
まさか、自分が動けなくなるほどの力を持っているとは、想像もしない。
弱い奴が我が物顔で『虚夜宮』を歩き回る事が気に食わず、時間を持て余したついでに彼女を待ち伏せた。
少し強めに霊圧を当て、牽制程度に顔を合わせる―――その予定だったのだ。
結局はその予定は大幅に狂い、自分が彼女の前に膝を着くことになったけれど。
「珍しいな」
湯気立つカップを前に、藍染はそう呟く。
向かいに腰を下ろした紅が彼の言葉に首を傾げた。
「非好戦的だと思っていたんだが…グリムジョーを相手にするとは思わなかった」
「…邪魔だったから」
「それも、先程みたいに瞬歩を使えば解決しただろう?」
どうやら、理由を聞きだすつもりらしい。
このまま誤魔化す事は出来ないらしいな、と心中で溜め息を吐き出す紅。
それから、説明する為に唇を開くも、言葉が発せられる前に彼の声がそれを遮ってしまう。
「元十一番隊の血が騒いだ」
まさに、紅が言おうとしていた答えだ。
先に言われてしまっては、同じ事を二度も言うのは妙だ。
中途半端に開いた唇から溜め息を零し、細い肩を竦めた。
「別に構わないが、使い物にならなくなるのは困るな」
「…今度から気をつけるわ」
「そうしてくれ。一番初めの霊圧だけで、下級の破面が十三ほど消えてしまった」
別に、最たる問題ではないが。
そう告げる彼に、紅はごめんなさいと謝罪を口に乗せた。
何となく感じていた程度の弱いそれらが消えたと思ったのは、どうやら気のせいではなかったらしい。
随分離れているから大丈夫だと思ったのだが…。
「相変わらず、霊圧を隠すのが上手いな」
普段彼女から感じるそれは、席官の末席にすらも劣るほどだ。
隊長と並んでも引け劣らないその霊圧をそこまで隠す事のできる彼女には感心する。
その所為で、破面たちから卑下する眼で見られていることを知っている筈なのに。
「十刃は初めてのようだが…“十刃落ち”からはよく絡まれているようじゃないか」
「そう困るほどではないわ。大抵は後ろ盾に怯えて碌に文句も言えない連中だから」
そう答えて揺らぐ水面に自身を映す。
湯気の向こうに見えた自分は、何とも表情のない目をしていた。
「それに…面倒だからいつもは相手にしないもの」
「だからこそ、珍しいね」
「…気分よ。彼、それなりに面白そうだったから」
自分の霊圧にやられてしまう程度であった事は予想外だったけれど。
元々十一番隊に居た彼女は、常に自分の霊圧を隠して過ごしていた。
本気を出せば隊長と並ぶ事すら出来たであろう彼女を満足させられる者は、一人として居ない。
いや、居なかった―――と言うべきだろうか。
強すぎる力を持った彼女は、それを受け止められる存在を求めていたのかもしれない。
「偶には全力を出してみるかい?」
「…もう、慣れたわ」
すっと頬を撫でられ、紅は目を閉じる。
彼に出会っていなければ、自分は今も闇の中で光を見失ったように、ただ迷い彷徨っていただろう。
紅が彼でなければならないとそう直感したように、藍染もまた、彼女を傍に置く事を選んだ。
優しい仮面を被った彼と、十一番隊に似合わぬ穏やかさを持ち合わせていた彼女。
瀞霊廷では、お似合いの鴛鴦夫婦と謳われたものだ。
藍染のように巧みに本質を隠していたわけではなかったが、誰も彼女のそれには気付かなかった。
だからこそ、そこを離れる事に対しても抵抗はなかった。
「限界まで耐える必要はないよ。ここでは、誰も咎めたりはしない」
頬を撫でていた親指が目元をなぞる。
それが離れるのにあわせて視界を開けば、いつもの笑みを消さない彼がそこに映った。
「下級の連中が居なくなるわ」
「そうなれば、また作ればいい。それに…少なくとも、この宮の中は結界を張ってあるから問題はない」
「―――ありがとう」
そう言って唇をなぞった彼の手を自身のそれで包む。
それから、まるで忠誠を誓うかのように、その手に唇を触れさせた。
07.07.14