逃げ水
「ゆっくりと休むといい」
「…隊舎へ戻るの?」
「……僕はまだ少し仕事が残っているからね。君が眠るまではここにいるよ」
そう言って、彼の手がそっと瞼を撫でる。
その動きに逆らわないように視界を閉ざしていけば、それに伴って眠気が首を擡げてきた。
「おやすみ、紅。次に目覚めた時には、全てが終わっている筈だよ」
完全に闇へと思考が落ちる間際に、そんな声が聞こえた。
同時に鬼道の気配に気付くも、最早抵抗する術はない。
沈み行く意識の中、辛うじて薄く開いた視界に映った彼の眼は、何を語っていたのだろうか。
ただ…最後に感じたのは、優しいその掌の温もりだったという事だけ。
「―――。―――…紅、紅…起きるんだ」
遠くから自分を呼ぶ声がする。
まるで繭に守られた蛹の様に、深い眠りへと落ちていた意識がグンと浮上してきた。
重い瞼を押し開ければ、そう眩しくはない光が目を刺す。
「…京、楽…さん?」
その声は思ったよりもかすれていて、随分と長い間眠っていたのだと分かる。
しかし、小さな声は彼の耳に届いたらしく、自分を見下ろす目が安堵の色を浮かべた。
「身体は大丈夫かい?」
「…ええ。すこぶる快調よ」
そう答えてから身体を起こす。
その時になって自分が寝起きであることを思い出したけれど、今更照れたり狼狽しても意味はない。
あっさりと諦めると、僅かに緩んだ胸元を整えた。
「それより…どうしたの?うちに来るなんて」
隊舎ではなく自宅で休んでいるのだから、ここに彼が居るのはおかしい。
その考えが伝わったのか、彼はどこか翳を浮かべた表情で笑みを作った。
「ここは四番隊だよ。どうやら、鬼道によって強制的な睡眠を取らされていたようだからね」
「鬼道…あぁ、あの人が施して行ったんでしょう。この所ゆっくりと休めていなかったから」
眠る前に傍に居てくれた彼を思い出しながら、紅は薄く笑う。
そんな彼女を見て、京楽はその翳を深めた。
「紅、落ち着いて…聞いて欲しい」
真剣な声に、紅はその表情から笑みを消す。
そして、頷くことなく、けれど肯定を目に宿して彼を見つめ返した。
「藍染が………死んだ」
「…………………え?」
「藍染が、死んだんだ。今朝、東の大聖壁で見つかった」
ぐわん、と脳内が揺れる。
彼は、今何と言った?
―――藍染が、死んだ。
「君に施されていた鬼道は、放っておけば数日間は目を覚まさないほどに強いものだった。それを施したのは―――」
「あの人、よ…」
「…そうか。藍染も、何かを察していたのかもしれないな」
顔を俯かせるわけでもなく、自分を見つめるわけでもない彼女。
虚ろな目に何も映す事無く、彼女はただ虚無を見つめた。
そんな彼女に、京楽は思わず心を痛める。
全てが解決するまで眠らせておくべきだったのかもしれない。
どの道、この事実を伝えなければならないと言う事に変わりはない。
だが、現段階ではまだ何一つわかっていないのだ。
そんな状況で彼女にこの事実を伝える事は、当然のことであり、また酷く危険な事でもあった。
彼女にとって、藍染はその世界の支柱の一つだといっても過言ではないのだから。
「…惣右介さんは、どこに…?」
「…案内しよう。卯ノ花隊長が手を尽くしている筈だ」
手を尽くしている、と言うのは、回復へのそれではないだろう。
恐らく、その原因を突き止めることに対して、持てる知識の全てを注いでいるという事。
行こうか、と差し出された手の上に自身のそれを重ね、高くはないけれど低くもないベッドから降りる。
あなたが居ないこの世界は、色を失っていた。
「紅、そろそろ起きないか?」
ふと、優しい声を掛けられた。
優しいけれど…それで居て、どこか冷たい声。
けれども、紅にとっては何よりも大切な人の声だ。
薄く開いた視界に横から覗き込む彼の顔が映り、それに答えるように笑みを浮かべる。
「おはよう」
「おはよう…どのくらい寝ていたの…?」
「3時間ほどかな。昼寝にしては少し寝すぎていたね」
疲れているのかい、と身体を起こした彼女の頬を、彼の手の甲が撫でていく。
その感覚に目を細め、紅は静かに口を開いた。
「夢を、見ていたわ」
「夢か…」
「あなたが死んだ時の夢を」
そう言えば、ガラスに隠される事のなくなった彼の目が軽く見開かれる。
そして、次に何かを含ませた笑みを浮かべ、その目は弓なりにしなった。
彼から発せられる霊圧はあの頃とは比べ物にならなくて、少しばかり重い。
けれど、それを隠さない事自体が自分への信頼の証に思えていた。
それに食われてしまわない辺り、彼女自身もまた、恐ろしいほどの霊圧をその身に秘めているということだ。
「懐かしかったかい?」
「…別に…ただ、あの時は世界が色を失った」
「苦しかった?」
その質問に、紅は言葉で答える事はなかった。
代わりに、広いベッドに腰掛けている彼の胸元へと額を寄せる。
時折こうして甘えるような行動を取る自分を、彼が拒んだ事はただの一度もない。
ふと、紅ちゃんには甘いんよ、と独特のイントネーションで告げた市丸の言葉が脳裏を過ぎった。
「…置いていかれたのかと思った」
何も話してくれなかったから、と呟く。
彼、藍染の部下である市丸や東仙は全て知っていたのに、自分は何一つ聞かされていなかった。
書類上は、誰よりも近いはずなのに。
それがただ―――もどかしい。
「君は私の考えをよく理解している。告げる必要がないんだよ」
「惣右介さん…」
「死を信じなかった―――それが、その証拠だ」
「また姫さんのとこに行ってはったんですか?」
「…ギンか」
長い廊下を歩いていた藍染は、三叉路に差し掛かった所でそう声を掛けられた。
市丸がその霊圧を隠していたわけはないのだから、知らなかったわけではない。
特にこれと言った反応を見せない彼に対し、市丸もまた、真意の見えない笑みを深めた。
「姫さん、最近調子良くないみたいやなぁ。大丈夫なんです?」
「あぁ、問題はないよ。尸魂界の微温湯に慣れてしまっていて、ここの連中の霊圧が合わないだけだ」
すぐに慣れるよ、と答えた彼に、さようですか、と頷く。
そして、彼は数歩進んで藍染の後ろへと並んだ。
「わかってても行かはるんですね。やっぱり、自分の奥さんの事は心配なんですか?」
「彼女の霊圧が暴走すると、折角生み出した破面の大半を失うことになる」
「せやったら、無理に連れてこんでも―――」
「ギン」
市丸の言葉を遮るようにして、藍染が低く声を発する。
彼は一瞬真顔でピタリと口を塞ぎ、次いでヘラリと笑みを崩した。
「すんません。軽い冗談ですわ」
そう答えると、彼は早々に踵を返す。
そうして彼の霊圧が離れていくのを背中で感じながら、藍染は足を止める事無く歩いた。
「死神の連中に紅を壊させるつもりはない」
呟かれた彼の声を聞いた者はない。
07.07.11