逃げ水

ふと、廊下を歩いていた紅は、近づいてくる気配に気づく。
息を潜めるように、気配を消して進むその人物。
今、この状況下でそんな風に気配を殺さなければならないのは、旅禍以外にはいない。
面倒なことになった、と思いつつ、紅もまた、ほんの少しだけ霊圧を消した。

「何をしているの?」
「わぁっ!!」

背後から声をかければ、面白いほどに驚くその人物。
なるほど、格好からして、こちらの人ではない。
そのまま前に転がってしまった人物を見ながら、紅はそんなことを考えた。

「え、あ…あの…」

地面に座り込んだまま、ジリジリと下がっていく。
まだ若い女の子だ。

「…あなたは…旅禍…?」

十中八九そうだろうと思いつつも、今気づいたように呟く。
ビクリと少女の肩が揺れた。
年齢的には、現代の高校生…だろう。
紅は、高校に通った経験がないので、現世への任務で見た学生を思い出した結論だ。

「…怪我をしているのね」

ふと、彼女の腕が目に留まる。
そこに巻かれた真新しい包帯は、きっとこちらに来てからのものだろう。

「……あの、捕まえない…んですか?」
「私はあなたに旅禍なのかと問いかけたわ。それに対しての答えがない以上、旅禍なのかそうでないのか判断できない」

言い訳に過ぎないけれど、確信を持てないことも事実だ。
淡々とそう答える彼女に、少女はきょとんと目を見開く。
紅は、そんな少女の腕に手を伸ばした。

「治してあげるわ」
「え、でも…」
「身体に傷でも残ったらどうするの?女の子なのに」

そう言って彼女の腕を取り、包帯の上から傷口に手をかざす。
手の平がほんのりと熱を持ち、治癒霊力に変換されたそれが傷口へと降り注ぐのを感じた。

「う、わぁ…」

感動と取れる声が彼女の口から零れ落ちる。
紅は最後まで怪我を癒すと、霊力の放出をとめた。
包帯を解いてそこを確認している少女、織姫。
数秒後、紅は改めて口を開いた。

「治療の代わりと言っては何だけど…一つ、質問してもいいかしら?」

自分から進んで治療しておきながら、と心中で苦笑する。
しかし、織姫の方はそう思わなかったらしく、笑顔で「はい」と頷く。

「あなた達は…何故、ルキアを助けに来てくれるの?」

自分たちのように、何年も…何十年も一緒に居るわけではない。
長い人生のうち、ほんの数ヶ月を共にしただけなのだ。
それなのに、旅禍と呼ばれる彼らはやってきた。
自分たちの住む世界を超えて。

「朽木さんは、友達なんです」

助けることに理由なんて要らない。
織姫はそう言った。
紅は、彼女の言葉に口を噤む。
友達―――自分には、馴染みのない言葉だ。
仲間とは少し違っているのだろう。
織姫の意思は強く、その眼差しにもはっきりと見て取れた。

「あなたは、朽木さんとどう言う関係なんですか?」
「…妹のようなものなのかもしれないわね」

事実、紅が白哉と結婚することになれば、彼女は妹だったのかもしれない。
いや…その場合は、彼が緋真と出会っていなかったと言うことになる。
そうすると、彼とルキアの繋がりもなかっただろう。
それを考えると、彼女との関係と言うのは、紙一重の運命で繋がっているものなのかもしれない。

「なら、一緒に助けましょう!」

少し迷った様子ではあったが、彼女は突然そう叫んだ。
思わぬ提案に、紅が目を見開く。

「私たち、朽木さんを助けたいんです。だから…お願いします。協力してください」

なんて純粋な子なんだろう。
感心すると同時に、少し呆れてしまう。
紅の仮面が人を良く見せすぎているのか、彼女自身が疑うことを知らないのか。
どちらが原因なのかはわからないけれど、こんな風に出会ったばかりの人間を信用するのは、正直馬鹿だと思う。
でも…心のどこかで、そんな純粋さを羨ましく思った。

「…残念だけれど、私には無理なのよ」
「でも、朽木さんは…!」
「裏切ることの出来ない人が居る。だから…助けたいとは思うけれど、あなたたちに協力することは出来ない」

はっきりと告げる紅に、織姫は肩を落とした。
出来るならば協力してほしいと思った。
妹のようなものだと告げた時の彼女の表情が優しかったから。
納得は出来ないけれど、しなければならないのだろう。
彼女は死神で、自分たちとは違う場所に居るのだ。

「女の子が、これ以上身体に傷を作っては駄目よ」

そう言うと、紅は立ち上がる。
そして、織姫の口が開かれたのを見て、瞬歩でその場から消えた。
残された彼女は、誰も居なくなってしまった空間を見つめ、一人小さな溜め息を吐き出した。





一瞬のうちに織姫から離れた場所へと移動した紅は、そこで息を吐き出す。

「一緒に…か」

ルキアを助けたいとは思う。
あの子に罪はない。
いや、無罪ではないけれど…少なくとも、こんな風に裁かれなければならないような罪ではないはずだ。

―――私のために動くのは構わないが、邪魔をしてはいけないよ。

ふと、藍染の言葉が脳裏に甦った。
紅はびくりと肩を揺らす。
それにあわせ、取り留めなく浮かんでいた思考が、ぷつりと中断された。
彼は紅に何かを制限するような術をかけているわけではない。
しかし、紅の行動は、確かに彼の言葉により縛られ、制限されていた。
一種の洗脳的な力が働き、彼女を彼の元へと引き戻す。
決して逃れられない、見えない呪縛。

「蜘蛛の巣に捕らえられた蝶に、逃れる方法なんてありはしないのに、ね…」

本当に彼に従っていていいのだろうかと思う時がある。
けれど…自分は、彼から離れられないだろう。
世界を闇で覆うことが目的だとしても、罪悪感を胸に抱きながら、彼の隣に立つ。
そんな自分がリアルに想像でき、紅は苦く微笑んだ。

08.06.13