逃げ水

後ろに居る五番隊の隊員が口元を引きつらせているのが分かる。
それも無理はない話しだろう。
紅は前に広がる光景に、軽く肩を竦めた。
そう言っても殆ど動きはなく、その場に居る者の大多数が気づかない。

「すみませんでした!!」

所謂土下座の姿勢で一斉に声を上げ、ゴンッと額を床にぶつける彼らは十一番隊。
紅からすれば、同じ隊のメンバーがそこに揃っているのだ。
隊長と副隊長、三席と五席の姿はない。

「…まだ一日は終わっていませんが」

チラリと時計に目をやり、紅はそう答える。
彼らが何に対して謝罪し、何を求めているのかは分かっていた。
けれど、これは彼らが言い出したことなのだ。
実際に彼女をここへと追いやる原因になったのは一部の死神だが、他のメンバーがよしと拳を握ったのを知っている 。
今後このようなことが起こらないようにも、今回だけは徹底する必要があった。

「今日一日はご自分たちで思うように十一番隊を動かしていただけるんですよね?
私には五番隊の仕事がありますので、皆さんのお手伝いは出来ませんよ」

そう言って片腕に持っていたそれを軽く持ち上げる。
この冊子から虚の情報を抜粋し、時期ごとにまとめあげる仕事が残っているのだ。
作業自体は単純だが、量が半端ではない。
とてもではないが、十一番隊の尻拭いをしている余裕などなさそうだ。
そんな、と悲痛な表情を見せた十一番隊の隊員たち。
野次馬のように紅の後ろに続いていた五番隊の隊員が微妙な反応を見せていた。
普段は威張っている十一番隊の彼らが、ここまで必死になるとは…。
驚きを通り越して、明日の天気を心配したくなってしまう。
しかし、どこか納得できていた。
紅という人物には、それだけの価値がある。
十一番隊よりも早くにそれを気づいていた五番隊の彼らは、心の中で「そりゃそうだろうな」と小さく頷いた。

「どうしたんだい、そんな所に集まって」

そんな優しい声が聞こえ、モーゼの十戒の如く人垣が左右に割れる。
紅の姿と、その向こうに並ぶ十一番隊の姿を捉えた藍染は、思わず苦笑を浮かべた。
それだけで状況を把握できてしまう。

「雪耶くん。仕事はどの程度終わったんだい?」
「この処理はまだ始めたばかりです。…言っておきますが、藍染隊長が甘い顔をされる必要はありませんよ」

自業自得ですから、と声を潜め、近くに来た彼にだけ聞こえるように言う。
それでも彼と二人の時のような話し方ではないのは、周囲の目を気にしたからだ。

「でも、君は十一番隊だろう?本来の職務よりも優先すべきことでは…」
「だ、駄目ですよ、藍染隊長!その仕事を今日中に終わらせられるのは紅さん以外には居ません!」

彼の言葉を遮るようにしてそう言ったのは、普段はおとなしい雛森だ。
割れた人垣の間を通り、二人の元へと駆け寄ってくる。

「雛森くん…」
「今日一日は五番隊なんです!終業まで絶対に返さないんですから」

そう言って彼女は紅の腕をぎゅっと握る。
まるで駄々をこねる妹のようだな、と思いつつ、紅は小さく微笑んだ。

「―――と言うことですので。更木隊長にも許可を頂いていることですし…今日一日は戻りません。
皆さんで協力して仕事を片付けてください。偶には頭を使って仕事をするのも悪くはないと思いますよ」

笑顔は綺麗で思わず頷いてしまいそうなほどだが、言っていることは彼らにとっては絶望的なことだ。
全員が肩を落とし、一人また一人とトボトボ引き返していく。
少し可愛そうな気もしたけれど、どこか心が晴れやかな五番隊員。
あまり他の隊と協力しない彼らのあのような姿を見て、少しばかり優越感を覚えてしまった。
そのことに気づいた者が、取り繕うにして自分の仕事に戻っていく。
五番隊の執務室は、すぐに先ほどの空気を取り戻した。
それを見届け、紅も作業の続きをすべく用意された机の方へと向かう。
彼女の背中を見送った藍染は、まだ隣に居る雛森に向けて口を開いた。

「雛森くんは随分と雪耶くんを買っているようだね」
「憧れています!私の知らないことを沢山教えてくれますから!」

流魂街出身の彼女にとっては、知識も経験も豊富な紅は目標でもあるのだろう。
迷いなくそう答える彼女に、藍染はそうか、と言って微笑んだ。

「多くのことを学ぶといい。雪耶くんは四席に居るべき死神ではないからね。僕と並んでいたとしてもおかしくはない」
「…何で紅さんは隊長にならないんでしょうか。あれだけ仕事が出来るなら、他の隊長の推薦ももらえますよね?」
「……隊を率いるような器じゃない。彼女はいつもそう言って隊長への昇格を拒んでいるようだね」

そう告げた彼。
雛森はうーん、と頭を悩ませた。

「器じゃないって…紅さんなら、きっと凄い隊長になれると思うんですけど…」
「…人にはそれぞれ目指すものが違うと言うことだよ、雛森くん。さぁ、君もそろそろ仕事に戻った方がいい」

そう言って背中を押す彼に対抗することなく、はい、と返事をして自分の机に戻っていく。
彼女を見送り、それから紅へと視線を向けた。
集中しているらしい彼女は、自分の視線には気づいていない。
けれど、常に周囲に意識を向けていることが分かる。
きっと、不意打ちの攻撃にも即座に対応するだろう。
数秒間彼女を見つめていた藍染だが、やがて隊長室へと消えた。

「凄い隊長、か…」

藍染は苦笑した。
紅はそんなことを望んではいない。
彼女の望みは、平穏に過ごすことだけだ。
自身の領域を脅かされることを恐れ、偽りの仮面をつけて人との深い関わりを拒んでいる。
そんな彼女が、隊長として隊を率いることを望むはずがないのだ。
本当ならば、彼女を自分の隊である五番隊に引き入れたいと思う。
彼女自身も、本心ではそれを望んでいる。
しかし、そうしないのは、二人の関わりを強固なものとしないため。
強いては、藍染の野望のためだ。
市丸、東仙も、既に隊長として徐々にその頭角を現してきている。
彼らと藍染、そして紅に共通点はない。
全ては、彼らがそう仕向けているからだ。
藍染と紅が夫婦であること自体、知る者はごく一部である。
着々と準備が整っていく。
藍染は静かに口元の笑みを深めた。

08.03.27